川端康成『親友』、60年ぶりに復刊!

日本初のノーベル文学賞受賞者である川端康成が残した”少女小説”『親友』が60年の時を経て、復刊しました。『親友』のあらすじをはじめ、川端の創作に対する姿勢、『親友』が復刊に至るまでの道のりをまとめています。

『日本の作家』(小学館)より 撮影/林忠彦

日本初のノーベル文学賞受賞者である川端康成。 言うまでもなく、昭和を代表する純文学小説家ですが、意外にも、低年齢層向けのいわゆる「少女小説」にも心を傾け、生涯で3つの作品を残しています。

その最後を飾るのが、小学館の少女向け月刊誌「女学生の友」に昭和29 年から連載された「親友」です。 百合小説の元祖ともいえる本作は、連載完結後すぐに単行本化されましたが、その後復刊されることもなく、まさに文豪の「幻の作品」とされてきました。

復刊した、川端康成の『親友』

この昭和文学の隠れた名作が、今ここに、60年の時を超えて復刊。 小学館の文芸レーベル、P+D BOOKSより発売され、書籍と電子版で楽しむことができます。

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しかも、60年前の単行本では掲載されることのなかった、玉井徳太郎画伯による連載当時のイラスト10数点も併せて収録。

イラスト

時代の雰囲気と、本作の世界観を手にとるように感じることができる、貴重な、まさに「復刻版」となっています。

川端康成、『親友』のあらすじとは

新制中学1年生のクラスメートめぐみとかすみは、同い年、同じ誕生日。赤の他人なのに従姉妹と見間違えられるほど似ていた二人は、自然と「親友」になっていく。

“鵠沼のおじさまの家”での夏休みの出来事、先輩女生徒・容子への憧れ、バザーで起きた小さな事件……些細なことでの行き違いで、都度こわれそうになる少女の友情。そして、やがて二人に別れの日が訪れる。

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川端の創作に対する姿勢とは

巻末には、川端の養女婿にあたるロシア文学者・川端香男里氏による解説文を記載。

川端がどのような姿勢で創作に取り組んできたのか、また、どのような苦難を乗り越えてきたのか。 大作家の歩みについて、「親友」が復刊にいたるまでの道のりを、時代背景を含めて述べられており、これを読むことで文豪・川端康成の存在をより身近に感じられます。

川端ファンならずとも見逃せない、そして日本文学研究者にとっても、大変貴重な1冊となっているこの「親友」。川端文学の隠れた名作、必読です。

それでは次に、川端香男里氏による解説文を全文掲載致します。


川端康成と少女小説

解説・川端香男里

 関東大震災の翌年の大正十三年三月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業した川端康成は、恩師から勧められた関西大学の職を断わって作家として自活する決心をしました。二十五歳の春でした。川端康成は在学中の大正十年、「招魂祭一景」で注目され、翌十一年にはプロの文芸時評家として文壇に登場します。この時代純文学は衰退し、書かせてもらう、原稿の注文がもらえるということが作家にとっては難しくなっていました。ところが文芸時評は、定期的に書くことが保障されていたわけですから、康成は思う存分書くことができました。以後二十有余年川端康成は、小林秀雄の言を借りるならば「鋭敏な批評家」として活躍します。

 月々の雑誌の小説を万遍なく読み批評するという仕事を続けたわけですが、この仕事が大変な「心身の浪費」であることは十分に承知しながら、それでも読むことを厭わなかったのは、実際の作品をまともに読みもせずに、今の文壇は駄目だとか、文学は衰退しているとか言い募る長老や批評家たちへの不満があったからです。実際に作品を読んでごらんなさい、そうすれば無責任な言い方はできないはずだと言い続けました。場合によっては冷酷非情とも取られかねない公正無比の態度をとり続けました。「自分の批評眼は絶対に正しいという信念がなければ、文芸時評など内職的には幾年と続けられるものではない」と川端は言い切ります。

 批評家への不信の理由は、実際に作品を読んでいない、読んだにしても読めていない、文学に対する固定観念に縛られていて若い世代の作品が評価できないという点にありました。作品が「読める」ということは、川端によれば「文章」の良し悪しがわかるということです。川端は繰り返し、新文学あるところ常に必ず新文章ありとか、新しい時代の精神は新しい文章によってしか表現できないと主張しますが、実はこの主張は新感覚派の主張であり、更には広くモダニズムの主張とも通ずるのです。川端が新人発掘の名人として知られるようになったことともつながります。岡本かの子の先生となり、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出したことは特記できます。

 川端は文芸時評の仕事を自分にとって「頭の若返り運動」であったと述べていますが、若返りの最大の刺激となったのは、「生れ出ようとする若々しい可能」を秘める新しい文章でした。川端が男性の文章より女性の文章を、また大人の文章より子供の文章を努めて多く読み、より多く愛したのもそのためであり、綴り方運動と深く関わったのもその表れでした。(中央公論社の『模範綴方全集』の選者となり、多くの小学生、少年少女の文章を多く読みました。)

 批評の世界では確固たる地位をたもっていた川端でしたが、本業の創作の方はどうだったかと言いますと、多くの純文学作家同様、苦難の連続でした。関東大震災は出版業界にも深い傷を残しましたが、純文学にとって最大の脅威は「キング」、「婦人倶楽部」、「主婦の友」など「面白くてためになる」大衆雑誌、婦人雑誌であり、これらの雑誌に掲載される通俗小説、大衆小説でした。これら大衆雑誌の売れ行きに比べたら純文学の売れ行きは微々たるもので、純文学の伝統を守ろうとする作家たちは深刻な生活難に直面せざるを得ませんでした。

 一般大衆の嗜好に投ずる大衆文学の圧力について、中村光夫はこの昭和初年から始まった圧力の潮流を「俗化の方向」と名付け、

小説の大きな流れは俗化の方向に向かって居り、作家はみなこの潮流のなかで、自己の世俗化をはかり、それによって自分の文学を肥らせた者は生き残って、そうでない者は何かの形で没落して行ったのですが、川端氏はこの危ない橋をもっとも見事な姿勢で渡り切った人です。

(『《論考》川端康成』)

と語っています。

 大変分かりにくい文章ですが、横光利一は『純粋小説論』の中で端的に「純文学にして通俗小説」が理想と言い切っています。

 横光の『純粋小説論』が純文学作家としての誇りと地位を保ちながら大衆作家の広い名声と実利を得ることを目的としているとしたら、その理想を完全に体現したのが川端だと中村光夫は言っています。ただ中村は『東京の人』『女であること』に成功した川端という表現をしています。これに対して秀逸な日本文学史を書いたドナルド・キーンは、中村の俗化論を援用しながら、成功した俗化の典型として川端の少女小説をあげています。(『日本文学史 近代・現代篇 四』)確かに外国人の感覚では、大作家が子供向けの作品にこれほど心を傾けるということは、理解しがたい異例のことであるかも知れません。

 川端の少女小説は昭和十七年『続美しい旅』が未完のまま中断されたのを機会に、終わりを迎えたと誰でも思いましたが、川端作品への読者の熱狂を記憶していた中原淳一、玉井徳太郎などの旧編集スタッフの手で昭和二十四年以降昭和三十年に至るまで川端の名を冠する少女小説が陽の目を見ることになります。その最後を飾ることとなったのが、昭和二十五年に小学館が創刊した『女学生の友』に掲載された『親友』です。十五回に分けて発表され、すぐに単行本化されました。この昭和二〇年代の一時的復活の試みがどのような背景のもとに行われたかについては分からないことが多いのですが、今回の『親友』の復刊が川端的少女伝説の一端について思いめぐらす機会となればと願う次第です。

(ロシア文学者、川端康成記念会理事長)

おわりに

日本を代表する文豪『川端康成』が連載した少女小説は、若い世代へのエールでもありました。 時代を超えて、川端康成の精神を、今この一作より感じてください。

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初出:P+D MAGAZINE(2015/12/17)

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