芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第10回】社会問題へのまなざし

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第10回目は、笹倉明の『遠い国からの殺人者』について。経済大国の底辺に生きる女性たちを真摯に描いた作品の素晴らしさと、面白さをクローズアップします。

【今回の作品】
笹倉明 『遠い国からの殺人者』 経済大国の底辺に生きる女性たちを真摯に描く

経済大国の底辺に生きる女性たちを真摯に描いた、笹倉明『遠い国からの殺人者』について

今回ご紹介する笹倉明さんは、ぼくの大学一年の時の同級生です。当時の早稲田の文学部は、二年生までは教養課程に所属することになっていて、第二外国語の選択でクラス分けがされていました。ぼくたちはフランス語のクラスだったのですが、隣のドイツ語のクラスには『青春デンデケデケデケ』で直木賞作家となった芦原すなおさんと、いまや日本を代表する作家となった村上春樹さんがいました。将来の作家が同じ学年に4人もいたわけで、さすが早稲田という感じですね。

ぼくが芥川賞を受賞してプロの作家になったのは29歳の時ですが、その時に同級生が宴会を開いてくれました。その席で笹倉が、おれも小説家になるぞ、と叫んでいたのを憶えています。
実際に彼は、勤めていた広告会社を辞めて、小説を書き始めます。やがて『海を越えた者たち』という作品を書き、『すばる』の新人賞でデビューして本も何冊か出したのですが、そのあと低迷していました。ものすごく貧乏していたようです。高度経済成長の時代でしたから、世の中は好景気でした。貧乏なのは売れない作家くらいのものだという気がしました。

それでも彼は小説を書き続け、やがてミステリーの分野に進出して『漂流裁判』でサントリーミステリー大賞、この『遠い国からの殺人者』で直木賞を受賞します。
笹倉明は大学時代から、ヨーロッパやアジアを旅行していました。ただ旅行するだけでなく、さまざまな町で人脈を作る才能をもっていました。関西出身の気さくな人柄なので、多くの人々とうちとけることができたのでしょう。ベトナム戦争が続いていたころは、難民救済の活動にもとりくんでいました。困っている人や、弱い立場の人に対する思いやりの気持ちが、作品を書いていくモチベーションになっていました。

ヒューマニズムに裏打ちされたミステリー

ミステリーを書くようになってからも、ただ話を面白くするためのトリックのようなものは用いず、ドキュメンタリーを書くように、外国人労働者の苦しい生活ぶりや、そこから生じた同情すべき犯罪をとりあげていました。これは社会小説といってもいいし、ヒューマニズムといってもいい、作家としては大切な心がけなのですが、残念ながら最近の文学のトレンドを見ていると、こういう立場で書かれた作品が少なくなってきたように思われます。

とにかく面白ければいいというような作品や、現実から目をそむけたファンタジー系の作品が売れていて、まじめな文学、社会の問題点を見つめた作品が評価されなくなったせいでしょうか、笹倉くんもいつのまにか、文壇から姿を消してしまいました。風の便りによると、アジアのどこかの町で、親しい人たちに囲まれて、のんびりと暮らしているようなのですが……。

でも、トレンドというものは、つねに移り変わっていきます。いまもう一度、笹倉明のようなヒューマニズムをストレートに打ち出した作家が登場すれば、逆に目立つのではないかという気がします。『遠い国からの殺人者』は、日本に出稼ぎに来ている外国人の女性が事件に巻き込まれる話なのですが、このヒロインの生活ぶりや心情が細かく書き込まれている点と、裁判の進行が的確に描かれていて、選考会で高く評価されました。

ピストルの打ち合いもなく、カーチェイスもなく、驚くべきトリックもないのに、読者はこの事件の展開にひきつけられ、ヒロインとともに当時の日本の社会状況を体験することになります。こんなところにも小説のおもしろさがあるのだなと、改めて文学というもののすごさを感じます。ぜひ皆さんにも読んでいただきたい作品です。

小説を読む楽しさ、書く楽しさ

こうして笹倉くんのことを書いていると、さまざまな記憶がよみがえります。学生時代、彼は歌手志望だといっていた気がしますし、広告会社に勤めていたころは元気に働いていたようにも思うのですが、突然、会社を辞めて、筆一本の生活を始めたのですね。

ぼくも作家として長く生きてきました。いまは大学の先生をしているので、筆一本というわけでもないのですが、作家というものがけっして楽な仕事ではないということは痛感しています。作品を書くだけなら、意欲さえあればいくらでも書くことはできるのですが、出版社からの依頼がなければ、ただのフリーターです。芥川賞とか直木賞とかを受賞していても、すぐに忘れられてしまうというのがこの世界です。

それでもぼくは大学で小説の書き方を教えていますし、作家志望の若者たちとつきあっています。それは書くことの楽しさを知っているからですし、何か他の仕事をしてでもいいから、書き続けることを自分の生きがいにするという生き方が、好きだからです。
ツイッターとかフェイスブックなど、言葉があふれている時代ですが、それでもぼくは小説というものが好きですし、たぶん読者の皆さんも、小説というものの楽しさをご存じのはずです。読む楽しさを知っていれば、自分で書いてみたくなる。それが自然の流れだと思います。これからもぼくは、小説の書き方について語り続けていきたいと思います。

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初出:P+D MAGAZINE(2016/12/22)

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