乗代雄介〈風はどこから〉第6回

乗代雄介〈風はどこから〉第6回


「飛べない虫を観察しよう」


 5月中旬、福島県いわき市に滞在していた。いわき駅の北口から徒歩1分の場所にいわたいら城跡がある。いわきに来たのは初めてではなく、各地で風景の文章スケッチをしているノートを見ると、城跡の北面を整備した丹後沢公園で2019年2月9日の昼時にやっている。その時は本丸一帯が発掘調査のため立ち入り禁止で、入れるようになったらまた来るかとぼんやり思った記憶があるけれど、今回もなお工事中だった。

 早朝、曇天の下、個人的な理由で奥田民生『花になる』をリピート再生しながら、いわき駅から北へと離れていく。住宅の多い道を進み、夏井川にかかる平橋を渡ると、土地が空いてくる。家がわずかに建ち始めた広い更地の一角に、石仏と石祠がブロック塀とフェンスであらかじめ区切られている。私はこういう場所をメモって、時間をおいて住宅の隙間に収まったところでまた見に行くという小さな趣味がある。磐城平城跡とともに再訪を誓った。

 歩道がなくなってきた頃、擁壁の隙間に階段を発見。見上げた先の樹木が高いので期待して行ってみるとお堂があって、朝日観音堂というそうだ。その陰には保存樹に指定された樹高約8メートルのヒイラギがあった。標識によれば、このあたりは自生の北限らしく、周囲の樹木に守られつつここまで育ったとのことだ。ヒイラギは老木になると尖りのない丸い葉をつけるけれど、二つとか四つだけ棘を出した葉が交じっているのがまさに老いという感じでおもしろい。こういう木もまたいつか見に来なければと思わせてくれる。

これ以上ない曜日選択。
これ以上ない曜日選択。

 田圃で端植えをしているおじさんに挨拶しつつ、カーブの多い山の方へと上っていく。いわき市フラワーセンターまで来たところで、ちょうど従業員の方が軽トラックで門を開けて回っていたので、会釈して入る。だいぶ進んで看板を見て気付いたが、正式には9時オープンらしい。まだ8時30分だ。おおらかなものである。

 9時からだという温室もすでに開いてそうだが、とりあえずバラ園の真ん中のベンチに座ると、いやな色をした雲が目についた。と思ったら降ってきた。ベンチにはツルバラ用の棚があるけれど、ツルバラは今のところ柱にしがみついているばかりなので濡れる。レインウェアを着こんで、その中でイヤホンを引っ張り、思い出したように音楽を聴く。

 ザ・ムーヴ『Flowers In The Rain』は「雨の中ただ座って花を眺めている」歌だ。私は60年代ブリティッシュ・ロックが好きな中学生だったが、あの頃どんどんリマスターされる中、ザ・ムーヴの曲はされてなお今日の天気みたいなもくもくした音だった。ロイ・ウッドが凝って多重録音するせいで、元々の音が悪かったらしい。それをさらに4倍録音モードでMDに入れ、遅刻してバスがない学校までの道を30分ぐらい歩きながら聴くぐずついた高校時代を思い出していたら一瞬で雨が上がった。ちなみに、その後のリマスターで音はだいぶよくなった。

 無事に温室を見学したあと、約26万平米の広大な敷地の中を歩き回る。貧乏性というか、どこに自分が快く思う風景があるかわからないので、全ての道を通りたくなるのだった。というわけで2時間以上かけてほぼ全ての道を歩き、一番北の出入口から石森山の方へ行こうと思って行ってみたら封鎖されている。ちょっとズルして柵を越えてしまおうとさえ思わないのは、電気柵があるからだ。いや、そもそも一人でいる時もこういうルールは厳守する。ズルというのはこっそりやるものだから、他人の存在を意識する。本当に一人でいたい人間は、いるかもしれない他人の存在すら疎ましいのでズルもしない。なお、遅刻は自然にしてしまうものなのでズルではない。

 とはいえ、センター内を戻って開いている門から出て外の道を歩き、20分ほどかけてさっきの柵の反対側に立ってみると、ちょっと悔しい気持ちもある。石森山の口まで来て、道が張り巡らされた案内図を見ながら、20分あればもう一つ奥まで行けたなと思う。こんなことを書いているが、歩き始めて、飛べない甲虫であるツチハンミョウを足元に見つけたらすぐに忘れるのだった。

ツチハンミョウのオス。ハンミョウの仲間ではない。
ツチハンミョウのオス。ハンミョウの仲間ではない。

 このぐらい人里を離れると春によく見かけるツチハンミョウは、ファーブルも夢中になったおもしろい虫だ。ハナバチ類の巣に寄生して卵や蜜や花粉を食べて成長するのだが、そこまでが大変で、まず、1匹のメスが地中に卵を5000個ほど産む。甲虫としては異常な数である。生まれた幼虫は花にもぐりこみ、もぐりこむどころか集まりすぎて花を隠すぐらい黒い塊になっているのも見かけるが、とにかくそこで、花にやって来た誰彼かまわずしがみつく。ハナバチを狙うのではなく、飛んで来たもの全部にいく。それがハナバチじゃなかったら何にもならないし、ハナバチでも、オスなら巣で暮らさないからアウト。ハナバチのメスにしがみつき、ちゃんと巣に落ちることができた時のみ、成虫への道が開けるのだ。稀に、オスにしがみついて交尾中にメスに乗り移るという敗者復活ルートもあるらしい。だから、ツチハンミョウの成虫は全員、数撃ちゃ当たるの生存戦略をくぐり抜けた運のいいやつである。変態の仕方まで特殊なのはもう説明しないが、見かける成虫は一匹残らず、姿の異なる幼虫時代にハナバチのメスにしがみついた経験があると思うとすごい。同窓会とかあったらめちゃくちゃ盛り上がるだろう、数が揃えば。

 あとまだ特徴があって、身の危険を感じると死んだふりをして黄色っぽい、忍者とかが使っていましたみたいなレベルの強い毒液を出す。脚の関節からラー油のワンプッシュぐらい出る。以前、知らずに触って洗いもせずにいたら数時間後に水ぶくれになったことがあり──詳しいのはその時に調べたから──反省を活かして写真を撮るだけにとどめる。オスは触角が途中でガビッとしている。個体差があるのか、かっこいい印象のもあれば、失敗した玉結びみたいに思えるのもいる。

 ツチハンミョウにかまってだいぶ時間を喰っていると、あってないような予定からもだいぶ遅れている。標高224.8メートルの石森山一帯は鬱蒼とした森の中にハイキングコースが整い、誰もいなくて最高なので、やはりもったいないから全部通った。林道を挟みつつ枝分かれしているから全部となると大変である。天候もあってひんやりした森では疲れる気配がなく気まぐれに走ったりしたが、それでもだいぶ時間がかかった。ようやく石森山を北に抜けようと〈太郎松への道〉を上っている頃には、もう14時を回っていた。

 このぶんだと帰り道は暗いかもしれない。暗いなりのおもしろさはあるけれど、頼りない人の目ではなんでも見逃してしまうから口惜しい。やはりあの20分は痛かったと思っていたら、急坂の上でスクーターのエンジンをかけようとする時の音がする。もちろんそんなはずはない。この音を聞くのは初めてだったが、斜面に伏せるように身構えるのと同時に、知識が脳から汗のように滲み出てきた──ヤマドリ。これは噂に聞くヤマドリのオスの威嚇音ではなかろうか。柿本人麻呂作とされている歌で知られるヤマドリはなかなか出会うことのない鳥で、野山をずいぶんほっつき歩いている私でも、3回見かけただけだ。

 坂の上、茂みの間に赤茶っぽい頭と長い尾羽が流れた。やっぱりヤマドリ。それを避けて回り込むように動いたもう1羽が見えて、こちらはキジである。ともに縄張り意識の強い鳥同士が、草木を鳴らしながら派手にやり合っているのだった。

 キジは静かだが、ヤマドリはずっとドドドドドと繰り返している。相手に向き直るたびに長々し尾が葉を薙ぎ払って感動する。20分早かったら聞けなかった、見られなかった、と思う余裕はその時はなかったが、幸運にはちがいなかった。ちょうど傾斜の下にいるから潜んでいられるし、さらに近づくこともできそうだ。急坂の終わりの木陰、3メートルほどの距離までにじり寄っても、必死の2羽は私に気付く様子はない。砂かぶり席だ。

 さあ顔を出そうと地面に張り出した木の根に手をかけたところで、指先に固いような柔らかいような変な感触があった。ぎょっと戻した手のひらに、黄色とオレンジの間ぐらいの液体が点々とついている。ラー油? 一瞬混乱したが、知識が脳から棘を突き出す──ツチハンミョウ。「ふっ」ざけんな、と言おうとしたのかは自分でもわからないが、大いにあせり、左手を土になすりつけながらなぜか急に、というかようやくカメラを出すことを思いつき、汚れた手で動画を撮り始めたが、2羽はいつの間にか遠ざかっている。慌てて上に出てみたが、分かれて茂みを去っていく後ろ姿が、撮れもしないで見えただけだった。

 ミネラルウォーターで手を執拗に洗ってから、その場にしゃがみこみ、この連載のことを思い出した。音楽を聴かないといけない。苦しまぎれに、井上陽水『ゼンマイじかけのカブト虫』を選択。生きていると調子に乗ってしまい「カブト虫こわれた」り、「白いシャツ汚れた」り、黄色い毒触ったりするのだ。

 手を心配しつつ、たいらきぬと呼ばれる地を東に進んで山を離れる。そこから南のいわき駅方面へ抜ける不動作のあたりは、低い山間を抜ける気持ちよい道だった。

楽しかったので2回渡った。
楽しかったので2回渡った。

 その後、たいらなかかべさくにあるいわき回廊美術館へ。この地では、東日本大震災の2ヶ月後、美しい里山と桜を未来に残そうと立ち上げられた〈いわき万本桜プロジェクト〉が今も進んでいる。広大な敷地を歩き、崖の先に飛び出すブランコや大いに揺れる吊り橋など、「落ちるのは自己責任」などと書かれたハンドメイドのスリルを一人楽しみながら、まだ高さのない桜を眺める。植樹は毎年行われ、吊り橋も敷地内に大きなものを作る予定で、今あるのはその予行演習ということらしい。

 変わりゆくもの、変わらないもの、変えていくもの。今日の道を10年後、20年後も歩いてみたいと思いながら、暗くなる夏井川に沿っていわき駅の方まで歩いた。手はどうやら大丈夫らしい。

あちこちにある看板の内容が異なるのは、里山づくりが進んでいる証拠。
あちこちにある看板の内容が異なるのは、里山づくりが進んでいる証拠。

写真/著者本人


乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。

〈「STORY BOX」2023年8月号掲載〉

◎編集者コラム◎ 『警官は吠えない』池田久輝
◉話題作、読んで観る?◉ 第64回「春に散る」