連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第13話 藤井聡太八冠につながる山口瞳さんの将棋

担当編集者だけが知っている 名作・作家秘話 【第13回】 ~藤井聡太八冠につながる山口瞳さんの将棋~

 名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第13回目です。藤井聡太八冠の快挙で盛り上がりを見せる将棋界。文壇きっての愛棋家だった山口瞳が、真剣対局〝十番勝負〟に挑んだ1972年のユニークな自戦記『血涙十番勝負』にも繋がる将棋・棋士の魅力とは。軽妙洒脱な文章で綴られながらも男の哀歓を描いている作品で、将棋を知らずとも読み応え充分。 その背景にあったドラマを、担当編集者が解説します。


藤井聡太八冠につながる山口瞳さんの将棋

 棋士の藤井聡太さんが前人未踏の八冠制覇を成し遂げた。朝刊の一面に大々的に報じられるくらい凄いことなのだ。

 タイトル戦は、主催はもちろん将棋連盟だが、後援の新聞社や通信社が付いていて、各々の棋譜がそれぞれの新聞に掲載される。ちなみに、八冠は、以下のようになっている。竜王、名人、王位、叡王、王座、棋王、王将、棋聖。 

 このビッグ・ニュースを泉下の板谷四郎九段、進九段親子が聞いたら、どんなに驚き、喜ぶことだろうか。板谷四郎九段は長く日本将棋連盟東海本部長を務めており、東海地方にタイトルを持ってくることを願ってきた。その思いは東海地方すべての棋士やファンの悲願でもあり、板谷四郎九段の次男・板谷進九段に、東海にタイトルをという切なる夢は託される。

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 好漢・板谷進九段は、第11期(1967年度後期)棋聖戦の挑戦者決定トーナメント決勝で、中原誠名人に敗退してタイトル挑戦を逃す。さらに、第7期(1981年度)棋王戦では、挑戦者決定トーナメントを全勝で勝ち抜くも、決勝で森安秀光八段に敗退してしまう。第9期棋王戦(1983年度)では、これまた決勝まで勝ち抜くも、またしても森安秀光八段に敗れる。そして1988年、第52期棋聖戦の二次予選決勝で、有吉道夫八段に勝利し、挑戦者決定トーナメントに進出を決めたのだが、この有吉戦の2週間後に蜘蛛膜下出血のため、47歳という若さで急死。結局、藤井八冠が現れるまで、タイトルが東海地方に渡ることはなかったのである。

 藤井聡太八冠は、愛知県瀬戸市の出身であり、師匠は杉本昌隆八段であることは棋界では有名な話だ。杉本八段は愛知県名古屋市出身で、かの板谷進九段門下である。藤井聡太八冠の快挙がなり、ここにおいて、すべてのタイトルが東海地方にもたらされ、板谷四郎九段の見果てぬ夢がとてつもない形で叶ったことになる。

 ところで、小学館から配信されているものに、全26巻の山口瞳電子全集がある。その中に、『血涙十番勝負』と『続血涙十番勝負』という2巻が収録されている。この2巻はP+D BOOKSとして、出版もされているが、タイトル戦が行われた一流の旅館で、山口瞳さんが威儀を正して、プロ棋士に「飛車落ち戦」と「角落ち戦」を挑んだ自戦記である。そして、凄まじいともいうべき棋士たちの人となりを活写した異色の傑作である。

「角落ち戦」を描く『続血涙十番勝負』では、山口さんは板谷進八段(当時)と、その弟弟子の石田和雄六段とを相手にしている。いわく「東海の若旦那、板谷進八段」「岡崎の豆戦車、石田和雄六段」。

 板谷八段との対戦では、山口さん、必勝の場面があったが、勝ちを意識したためか、緊張のあまりだろうか、山口さんは大失着の手を指して、一敗地にまみれてしまうのである。

 それはそれとして、P+D BOOKSの『続血涙十番勝負』に、私が、藤井聡太八冠の天才振りに驚きながら書いたものがある。重複することになるが引用してみたい。

「藤井聡太四段がプロになってはじめて戦って、勝った棋士が加藤一二三八段でした。加藤九段は、「神武以来じんむこのかたの天才」と言われた神童で、棋界初の中学生のプロ棋士だったので、藤井四段はそれ以来の、中学生プロ棋士です。さらに、藤井四段は、加藤九段が持っていた史上最年少棋士記録(十四歳七ヵ月)を、十四歳2カ月という記録で破りました。

 藤井四段にとって、プロ棋士のデビュー戦の対戦相手は、なんとその加藤九段だったのです。将棋の神様は粋なことをなさるものですね。その対局に勝った藤井四段の快進撃は続き、二十九連勝の新記録を達成します。その後の加藤九段は、最高年齢での公式戦勝利など果たしましたが、現役棋士を引退、「ひふみん」と呼ばれて、独特の早口と純粋な人柄とで、若い人たちのアイドル・タレントになっていることは、ご存知の通りです。」

 その後、藤井聡太八冠はタイトル戦では負け知らず、とうとう、タイトルすべてを独り占めにした訳だ。

 板谷進八段(当時)と山口瞳さんの間には、もうひとつ将棋の駒をめぐってのドラマがあるので、それをご紹介しよう。

「週刊新潮」に連載された、名エッセイ「男性自身」の昭和63年2月24日の分に、山口瞳さんは、以下のように書いている。

「スバル君来。名古屋の板谷進八段が蜘蛛膜下出血で倒れたという話をする。知らなかったので驚き、かつショックを受ける。様子がわかったら連絡してくれと頼んだが、スバル君が帰って夕刊を見たら、もう板谷さんの死亡記事が出ていた。

 板谷さんは、その名の通り直進する棋士だった。エネルギッシュで、自分でも『体で指す』と言っていた。達磨のイメージがあって、僕は秘かに『ヒゲダル』と呼んでいたが地元では『豆タンク』であったらしい。

 (略)

 僕は名古屋に行けば板谷さんを呼びだして栄町あたりを飲み歩いたものだ。板谷さんもひとなつこい人で、三田にあった仕事場にも国立の家にも泊りにきた。僕のことを将棋界の宣伝部長と呼び、妻のことを奨励会の母と呼んでいた。それがいかにも嬉しそうだった。板谷さんには将棋の駒を貰っている。名人宮松の虎斑の駒で、現在百万円以下では買えないだろう。妻は、僕が死んだら板谷さんにお返しするとよく言っていたが逆になってしまった。いい時期を見て墓参りかたがた名古屋にお返しに行こうと考えている。いま、お墓参りと言っても実感が湧かないのである。

 熱烈な郷土愛の人でもあって、名古屋人を揶揄するタモリに対して、こう言っていた。『福岡の男に何を言われても構わん。東京の男にあんなこと言われたら許さん!』」

 その後、山口さんは1995(平成7)年に亡くなるのであるが、山口さんの奥さんは、かねて言いつかっていたように、その駒を返却される。名人宮松の虎斑の駒は、現在、故板谷進九段のもとに保存されていると聞く。

 そして、河口俊彦七段(当時)の日誌には、

「20日ほど前、小林健二九段と故山口瞳宅へうかがった。昔、板谷進九段が山口さんに駒を贈ったが、それを夫人が返して下さった。そのお礼をしたいと小林九段が言うので案内した」

 と、書かれている。

 小林健二九段は、板谷進九段の弟子なので、藤井聡太八冠の「大師匠」に当たる。

【執筆者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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