【番外編】連載・担当編集者だけが知っている名作・作家秘話 ~丸斗の夜~
名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間では、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。今回は、一般読者には知られていない作品の裏側をお伝えする連載の番外編。筆者が語る、「編集者冥利に尽きる」その瞬間とは? 当時のエピソードを振り返ってみましょう。
1973年のこと――今も鮮明に蘇るあの夜
新宿西口、確か淀橋署の近くだったと思うが、「丸斗」という鰻屋があった。小体な一軒家で、あまり建て付けがいいとは言い難い格子戸を、ガラガラと開けると、土間に造りつけのテーブル席がふたつ、左手に小上がりがあって、そこに座卓がふたつ置いてあった。
ちょっと三遊亭圓生に似た面長の、鯔背な感じの親方が鰻を捌いていた。
耳に気持ちよく響く、いかにも下町の江戸弁で話す人だった。
ある日、白焼きを頼んだら、河岸に白焼きにいいのがなかったので用意できないと言われたことがある。白焼きは蒸さないので、あまり脂の乗ってない、まだ育ってないのがいいのだそうだ。なるほど、それでここん家の白焼きは美味いんだと得心したのだが、とにかく、吟醸がどうの、大吟醸がどうのと言わないが、癖のない辛口の酒を出してくれる店だった。
井伏鱒二さんとか、庄野潤三さんとか、三浦哲郎さんなども常連だったと思う。
この店の奥のテーブル席を予約して、ぼくは、長部日出雄さんと直木賞の結果を待ったことがあった。1973年のことだ。
同じテーブルに、津軽書房の高橋彰一さんと、「小説現代」編集長の大村彦次郎さんがいた。
1972年に、長部さんが「小説現代」に書いた「津軽じょんから節」と「津軽世去れ節」が、ふたつ合わせて、第69回直木賞の候補になっていて、その2作は、津軽書房から出版された単行本「津軽世去れ節」に収録されていた。
そんなわけで、高橋さんと大村さんも同席していたのだ。
なぜ、鰻屋で待つことにしたかと言うと、酒乱で鳴らした長部さんが、いままでの経験から、鰻を食べると酒を飲んでも酒乱にならないので、待つのは鰻屋にしたいと所望されたからだ。
津軽書房の高橋さんにとっても、ぼくにとっても、自分が手掛けた作品が大きな賞の候補になるなんて経験は初めてのことだった。そして長部さんにとっては人生を変えるような長くて大きな一日だったのである。だから、とくに落選した場合、荒れることはありうることだった。
直木賞や芥川賞の選考の議論が終わって、当選者に文学振興会から電話連絡があるのが、夕方8時くらいからが多い。落選した人には、それぞれの担当者が連絡をするのだけれど、すぐという気持ちになれないらしく大分遅くに連絡が入る。
6時過ぎに待ち合わせの「丸斗」に入って、驚いたのは、小上がりの道路寄りの座卓に、大江健三郎さんとドナルド・キーンさんが座っていることだった。
このとき、ぼくも大村さんも、読み物雑誌の編集者だったから、大江さんにも、キーンさんにも面識がなかった。だから、挨拶もせず、ぼくたちのテーブルに座った。大江さんもキーンさんも、長部さんが今日、選考会が開かれている直木賞の候補になっていることは知っておられたと思う。
ぼくたちも気詰まりだったが、大江さんたちも居心地は良くなかったかも知れない。
鰻屋は賞の選考結果を待つのに、あまりいい場所ではないと気がついたのは、8時が近くなってくると、出前や予約の電話がひっきりなしに掛かってくるので、その度に、長部さんは跳び上がり、ぼくたちは固唾を呑み、しかして、それが文学振興会からの電話ではないと分かるまで、緊張を強いられるからだ。
ぼくは大江さんたちの席に背を向けていたので、よく分からなかったが、電話の音は、大江さんたちの居心地を悪くしたかも知れない。
そうこうしているうちに、ついに待ちに待った電話が来た。
店の奥から、おかみさんが、
「長部さんに電話ですよ」
と、カウンター越しに受話器を差し出してくれたのだ。
長部さんは受話器を取ると、しばらく先方の話を聞いたあと、頭を下げて、ありがとうございますと言った。ぼくたちは長部さんの受賞を確信して、歓声を上げていた。
ぼくは担当した作品が初めて賞の対象になり、それを著者と一緒に待って、受賞の瞬間に立ち会えたのである。編集者冥利に尽きるとはこのことだろうと思った。結果を待っている時とは違った興奮が身体中を巡ったのを覚えている。
そのとき、大江さんが小上がりから降りてきて、こちらのテーブルに近づいてきた。
そして、
「先ほどから伺っていると、直木賞に受賞されたようで、おめでとうございます」
と、祝福の言葉をかけてくれた。
長部さんも緊張して、頭を下げていた。
そして、そのとき、ガラガラと音がして、格子戸が開くと、野坂昭如さんが立っていた。
「店の前を通ったら、中から声が聞こえたもので」
と、例の口調で言った。そして、付け加えた。
「受賞したらしいですね。おめでとうございます」
このあと、長部さんは記者会見のために、東京会館に向かったはずだが、ここからの記憶はまったく消えているから、ぼくの足は、ゴールデン街に向かって、朝まで飲んだのだと思う。鰻のせいか、この夜、長部さんが酒乱になったという話は聞かなかった。
「丸斗」の夜からしばらくして、会った長部さんは、ぼくに小さな箱を手渡しながら、
「受賞者はオメガの時計をもらうんだけど、担当してくれたあなたにも同じ栄誉を上げたくて」
と言った。
箱の中には、長部さんがもらった時計より少し小振りな腕時計が入っていた。
もう、半世紀も前のことだ。
この夜に登場した人たち、長部日出雄さん、大江健三郎さん、ドナルド・キーンさん、野坂昭如さん、高橋彰一さん、大村彦次郎さん、すべて亡くなっている。
そして「丸斗」も後継者がいなくて、なくなったと聞く。
【執筆者プロフィール】
宮田 昭宏
Akihiro Miyata
国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。