連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第43話 PGAゴルフ会の作家たち

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第43話 PGAゴルフ会の作家たち

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第43回目。今回のエピソードの舞台はゴルフ場。作家としてのイメージからは想像できないような意外な一面が色濃く出るシーンが満載だったようで……。担当編集者ならではの視点で多くの作家の個性を浮き彫りにします。


 担当と言っても、編集者には、変な担当もある。あまりに変な担当なので、登場する人たちの敬称は略して話を進めることにする。

 ある日、私は、経理担当常務から役員室に呼ばれた。文芸担当の編集者が経理担当の役員に呼び出されるなんて、それまで経験したことのない異常と言っていいようなことだ。

 誰か作家が前借りの借金を申し入れたのか?

 彼は人事を総括する総務局の担当役員でなかったか?

 役員室に向かいながら、私は私の身に降りかかる可能性のある不吉なことをアレコレと想像した。

 おそるおそる部屋に入ると、常務は、

「ああ、ご苦労さん。今度、あなたにPGAの世話をしてもらおうと思って」

 と、言った。

 PGA? たしかProfessional Golf Association(アメリカのプロゴルフ協会だったかな)?

 そんなものの世話なんかできるわけないしなあと、私は思った。

「世話してもらうのは、Penman Golf Associationで、PGA」

 常務はそう言って笑った。

「Penman、つまり作家たちがたくさんいるから、その世話をしてもらいたいのです」

 なんだ、そういうことか。

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「大久保房男さんがやっていたのだけれど、そのあとをやってもらいたいのです」

 大久保房男さんは、長く「群像」の編集長を務めていて、とくに、遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介などの第三の新人と言われる作家たちに「鬼」と恐れられた頑固一徹の編集者だ。

 ここで、小説家とゴルフの関係を戦前から見てみよう。 

 戦前の1933(昭和8)年ごろ、文壇でゴルフをやる作家はそんなに多くはなかったが、それでも、正宗白鳥、河上徹太郎、邦枝完二、川口松太郎、木村毅、加藤武雄、牧逸馬、久米正雄、佐々木茂索、山本有三、吉川英治、小林秀雄などがゴルファーとして記録されている。

 1934(昭和9)年に、「芸術家ゴルフ協会(AGA)」が結成され、久米正雄、尾上菊五郎、早川雪洲,近衛秀麿、佐野繁二郎、川口松太郎など23名の芸術家たちが参集したという。

 そして、1936(昭和11)年に、やはりジャーナリストや作家たちが、青蕃(あおばん)会を結成する。当時は、OBを青蕃(あおばん)と呼んでいたから、洒落で、それを会の名前にしたようだ。久米正雄、国枝完二、川口松太郎などが参加した。

 さらにその翌年の1937(昭和12)年に、PGA(Penman Golf Asosiaions)が創立された。どうやら、新聞社の外信部の連中が、海外に駐在しているときに習い覚えたゴルフを、帰国したあともプレーしたいと、相模カンツリー倶楽部で、会を起こしたらしい。それゆえ、ペンマンという呼称をつけたそうだ。

 私が世話をするように言われたのが、このPGAで、新聞に寄稿していた作家たちにも声がかかるようになって、島中雄作、鈴木文史朗、佐々木茂策、鶴見俊輔、久米正雄、杉村楚人冠、細田民樹、邦枝完二など十六名が創立メンバーで、翌年、蠟山政道など三人が入会している。

 戦争で、ゴルフどころではなくなって、いずれの会も休会のやむなきに至ったが、戦後まもなく、青蕃会もPGAも復活の機運が起こった。

 青蕃会もせっかく復活したが、しばらくして世話人が亡くなったことから徐々に参加するプレイヤーが少なくなっていき、さびれることになった。

 その苦境のとき、古いメンバーの生沢朗、城山三郎らが相談して、佐野洋、三好徹、半村良、増田寿郎(朝日新聞記者で相模のメンバー)、横山隆一、泰三兄弟などを新人メンバーとして迎い入れて、テコ入れを行った。

 PGAは1950(昭和25)年に、高石眞五郎、佐々木茂策、三宅晴輝、邦枝完二、獅子文六、植村陸男、摂津茂和、水谷準。楠山義太郎などの戦前からのメンバーに加えて、角川書店の角川歴彦などの若い会員を勧誘して再開された。

 昭和30年代の中ごろから、文壇にも軽井沢の別荘族が増えたこともあって、文壇ゴルフ・ブームが起きて、PGAも隆盛を迎えることになった。

 そして、この隆盛には、講談社の社長だった野間省一の貢献がある。

 野間省一は、石坂洋次郎に勧められて、1950(昭和25)年にゴルフをはじめた。

 1951(昭和26)年、PGAのゴルフ会のゲストとして参加して、プレイのあとの懇親会で、野間省一は目から鱗が落ちるような経験をする。

 戦時中の講談社の出版物が戦争を翼賛するものだったということで、野間省一はパージに遭って、出版人の間での会話にも不自由を感じていたり、出版のための紙の入手に苦労したりもしていたのだ。

 ところが、このゴルフのあとの懇親会では、スコアのことには触れることなく、作家たちも、ジャーナリストたちも、編集者たちも、それこそ忌憚のない談論風発が、野間省一の目の前に繰り広げられていたのである。もちろん、野間省一も久し振りに、その歓談の中に入れた。

 野間省一は、その場で入会を許されるが、感動のあまり、幹事役を引き受けることを申し入れた。もちろん、細々とした事務の仕事は秘書がやることになるが、その秘書の事務方振りも遺漏なく、PGAの隆盛の基になった。

 もうひとつ、PGAの隆盛の基になったのが、丹羽文雄を校長とする丹羽学校の存在である。

 丹羽学校は、1962(昭和37)年、軽井沢ゴルフ倶楽部で源氏鶏太、柴田錬三郎のふたりが、丹羽文雄にゴルフの教えを乞うたのを嚆矢(こうし)としてはじまったものである。

 軽井沢ゴルフ倶楽部は首相経験者の宮澤喜一や、白洲次郎などが会員である、名門ゴルフ場だ。

 川口松太郎、阿川弘之、井上友一郎、井上靖、源氏鶏太、柴田錬三郎、高橋義孝、富田常雄、水上勉などの作家のほかに、画家の岩田専太郎と医師の宮田重雄が入学して、丹羽学校は発足した。

 1964(昭和39)年、大久保房男は野間省一に言われて、丹羽学校の会社公認の世話役となり、丹羽学校は会としての体裁をうまく整えた。丹羽学校の入学者の多くは、PGAのメンバーとダブっていたので、文壇ゴルフの両輪としてうまく作用していったのである。

 1966(昭和41)年、大久保房男はPGAへの入会を許される。PGAへの入会資格は、出版業界に棲息していて、「品性高潔にして、技倆拙劣なる者」とあって、大久保房男はその資格をクリアしたわけだ。そして、大久保房男がPGAの事務方を引き受けるようになったというのが、文壇ゴルフのあらましである。

 実際、PGAの世話役と言っても、その役についてみると楽なものだった。

 これまで書いてきたPGAの古いメンバーたちは、もうほとんどが引退するか、亡くなっているかして、私が日頃付き合っている作家たちが会の中心になっていたのだ。

 会を開くのは、出版社主催のいろいろなゴルフ会が目白押しになる、5月と9月を外しての月例になっていた。

 普段の仕事では頑固だったり、偏屈だったりした作家も、ことPGAとなると、まことに聞き分けのいい優等生に変身した。遅筆で有名だった作家も、PGAとなると、きちんと時間前に集まって、それぞれ、ドライバーやパットの練習に(いそし)しんだりしていた。また、そんなことには目もくれずに、クラブハウスで顔見知りの作家たちとコーヒーを啜りながら、話に花を咲かせる作家たちもいた。

 私もしだいに、PGAゴルフ会を楽しむようになっていた。

 

 ここで、メンバーたちのひとくち思い出話を披露してみたい。

 

 まず、PGAのほかに、自分が主催するゴルフ会を持っている作家は、佐野洋、三好徹、生島治郎、半村良、渡辺淳一の面々だ。

 

 佐野洋のゴルフ会で、ゲストの村上豊が、五月の節句に合わせて、金太郎を描いた色紙を賞品に用意してくれた。何着にその賞品があったのか忘れたが、その色紙を私が受賞した。

 その元気な金太郎の色紙を見て、佐野洋は、

「ぼくの、生まれたばかりの孫が男の子なので、それを孫のために譲ってくれるとありがたい」

 と、遠慮がちに申し出た。

 もちろん私は快く譲ったが、そのときの赤ちゃんも、もう立派な成人になっていることだろう。

 

 三好徹のゴルフ会は、金井清一などのプロ・ゴルファーがゲストに来たり、ルールにも厳しいところがあったりして、レベルが高いものだった。競技が開始になる前、メンバーが集合したときの挨拶に、三好徹はいつも、

「原稿より健康です」

 と言った。

 なるほど、ゴルフ場ではその通りだったが、作家に戻った三好徹は、「健康より原稿」だったと思う。

 生島治郎は、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説『長いお別れ(The Long Goodbye)』の訳本があるが、〝If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.〟を、「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」という名訳を残していた。

 その生島治郎が、川崎のソープランドで出会った、韓国出身の女性と結ばれ、その経過を書いた『片翼の天使』という作品がベスト・セラーになった。それからしばらく富士山が見えるゴルフ場で、ゴルフ会を持つようになった。私は、なにか独特の甘やかで、ゆるやかな雰囲気のゴルフ会で、一日を過ごした記憶がある。

 

 半村良は、とにかく早打ちで、ボールのそばに行ったかと思うと、もう打っていた。フェアウェイにいた小鳥に逃げる隙を与えず打ったものだから、ボールは見事小鳥に命中して、小鳥はしばらく気を失っていたこともあるくらいだ。

 鹿島建設が寄居町に新しく作ったゴルフ場の会員になった半村良は、

「名門ゴルフ場では建設屋とバカにされているので、鹿島建設は意趣晴らしに、素晴らしいゴルフ場を作ったんだ」

 と、そのゴルフ場を自慢していた。たしかに自慢するほど、コースもクラブハウスも立派な作りになっていた。

 半村良は、ラウンド中いつも、軽妙なジョークを口にしては、同伴競技者を笑わせていた。私が腰に痛みがあると言うと、

「だから弱腰なんだな」

 と、茶化した。そう言われてみると、私の人生は弱腰人生だと納得するしかないことに思い当たった。

 渡辺淳一のゴルフ会は一番豪華で大人数が参加した会だったかもしれない。普段は裾野にあるファイブ・ハンドレッドで開催されたが、年に一度か二度、北海道で行われた。集合は羽田空港で、函館に着くとすぐに航空会社の経営するゴルフ・コースへ直行してラウンドをこなし、そこから渡辺淳一の持っている別荘のある分譲地に向かうことになる。そこの宴会場で宴が繰り広げられ、三々五々、分譲地にある別荘で分宿、早朝から、分譲地に付属するゴルフ・コースでもうひとラウンドをこなす二日制のゴルフ会だった。私は、北海道で昼ご飯なしのスルー・プレイのゴルフをはじめて体験した。

 ここからは、思いつくまま、PGAだけで会う人たちの思い出だ。

 安孫子素雄(藤子不二雄A)はとにかくタフなゴルファーで、出版社のハイヤーが早朝、安孫子素雄の家に迎えに着くと、それまで六本木で徹夜で飲んでいた安孫子素雄のご帰館のタクシーがほとんど同時に着いた。安孫子素雄はすぐさまハイヤーにゴルフ・バッグを積むと、ゴルフ場に向かって、そのまま18ホールを回って、風呂のあとの宴ではまた延々と飲み出した。

 五木寛之は、佐野洋や三好徹と一緒にゴルフをはじめたが、あまり熱中しているようには思えなかった。ゴルフよりは、『百寺巡礼』の取材などで足腰は充分に鍛えられていたと思う。五木寛之がよくエッセイに書いているように、髪を洗わないことを信条にしているようで、ゴルフが終わったあとの風呂では、いつも頭にタオルを巻いていて、洗うことがなかった。

 横山隆一は最古参と言っていい高齢の人だったが、雨でも平気でラウンドをこなした。あるみぞれ混じりの日の大会で、濡れ鼠なっても中止することなく18ホールを終えて、足早に風呂に直行して、のんびりと温まり、それからクラブの食堂で、熱燗をゆっくり楽しみつつ、

「これがあるから、雨でもみぞれでもゴルフはやめられない」

 と目を細めて平然としていた。

 

 横山泰三は、横山隆一の弟であるが、ラウンドの前によく練習をするプレイヤーだった。だから、ゴルフ仲間に、

「泰三さんは練習の虫ならぬ、練習の毛虫だ」

 とからかわれて、

「なにッ、毛虫だって」

 と、怒る真似をしたあと、

「それでも毛があるだけいいよ」

 と涼しい顔をしていたそうだ。つまり、横山泰三は見事に禿げていたのだが、そのことをからかわれても、剽軽な受け応えで対応する人だった。

 古山高麗雄はPGAの熱心なメンバーだった。そして、作風や普段の生き方とは違って、そのゴルフはとても攻撃的で、どんな苦境でも果敢に攻めるのが信条だった。

 ある日の夕刊に、古山高麗雄は「孤独死」の勧めと言うようなエッセイを書いた。愛妻を先に亡くしてひとり暮らしの身には、ひっそりと死んで、何日かのちにその死を発見されることは望ましいことだというようなことを述べていた。

 そして実際、古山高麗雄はエッセイに書いたような「孤独死」を遂げた。古山高麗雄の死が発見された日は、PGAが開催される日だった。そして、私のところには、「出席」の葉書が届いていたのだった。たぶん、その出席の葉書を投函したのは、PGA開催の何日か前、つまり、古山高麗雄の死の、ほんの何日か前のことだ。

 PGAは相模カンツリー倶楽部で行われたが、開催には相模のメンバーの紹介が必要だった。渡辺淳一が亡くなるまでは、彼の紹介ということで開催して、亡くなったあとは、伊集院靜の紹介で行った。

 伊集院靜はゴルフも上手で、よく飛ばしていた。世界の有名なコースを巡る本を出版していたくらいだ。テレビの番組で、全英オープンが行われたセントアンドリュースのオールド・コースを回ったことがある。何番ホールだったのか、よく飛んだ二打目は、ホテルの上を狙って行けと言う、コース専属のキャディのアドバイス通りに打って、建物の上を越す見事なショットを放って、キャディをうならせた。その伊集院靜も病いに倒れ、やがて亡くなった。

 こうして、PGAの会員は少なくなっていき、ある年、世話役をやっている私が、一番の年長になるという事態になっていた。そうなっては、戦前から続いていたPGAも幕を下ろす時期が来たわけである。

【著者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギヤマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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