椹野道流の英国つれづれ 第26回

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グループ学習で毎日のように出される「今、興味を持っていること」というディスカッションテーマにはピッタリですが、クラスメートたちに聞かせたくない話ではあります。

何しろ、今のクラスは6人からなるのですが、5人がドイツ人。

現実主義で、ドライで、戦車のようなズガガ感のある英語を喋る彼らに、幽霊話はそぐわない気がしましたし、頭から馬鹿にされそう、という偏見もありました。

ならば! 個人レッスンだ! それしかない。

当時、午後からの個人レッスンのために用意された小さな教室は、半地下にありました。

通りからその部屋に下りるための専用の階段もある、ちょっと特別感のある部屋でしたが、まあ簡潔に何かというと、昔の使用人部屋です。

小さな学校でしたから、建物は古い3階建ての一般住宅、つまりフラットでした。

両隣の家とがっつり連結した状態で建築される、衝立のような様式の住宅です。
一時はホテルとしても使われていたそうで、なるほど、小部屋がたくさんあって、語学学校にはピッタリですね。

半地下には、カフェテリアと、私が使う、2人入ればいっぱいいっぱいの教室がありました。

カフェテリアは、かつてこの家が個人の住宅として使われていた頃の台所と使用人用の食堂、そして教室は、使用人の寝室だったそうです。

他の使用人たちは、最上階の屋根裏部屋で暮らしていたと、校長先生から聞きました(後には、屋根裏部屋のひとつが、私専用の教室となりました)。

そういうヴィクトリア時代の面影を濃く残したこの建物が私はとても気に入っていて、教室で授業を受けているあいだ、視界の上端すれすれに見える地面を行き来する、誰かの足首から下を見るのも大好きでした。

日の光はあまり差さないし、いつも底冷えがして、湿気のせいで黴臭い。

当時の使用人が置かれた過酷な状況に思いを馳せつつも、いっときそこに身を置くだけの留学生は、むしろ昔の大英帝国の空気を感じ取れて嬉しかったりしたのでした。

その昼なお薄暗い教室で、私は個人レッスンの教師であるボブに、毎夜の怪奇現象のことを打ち明けてみました。

ボブは三十路、フレディ・マーキュリーの大ファンである快活な先生で、後に我々はとても仲良しの遊び仲間になるのですが、そのときはまだ単なる先生と生徒でした。

ボブは、私が自分の英会話能力にすっかり自信を失っていることに気づくと、レッスンのたびに、私に好きに喋らせる時間を設けるようになりました。

私が拙い英語で一生懸命喋っている間は、決して訂正を入れず、うんうんと相づちを打って先を促し、言葉に詰まると短く助け船を出し、どんな話題でもリラックスした笑顔で、面白そうに耳を傾けてくれるのです。

そのときも、面白そうに青い目をキラキラさせながら聞いてくれたボブは、私がどうにかこうにか語り終えるなり、ちょ……っとだけトム・クルーズに似た笑顔でこう言いました。

〝Lucky you!〟

と。


「椹野道流の英国つれづれ」アーカイヴ

椹野道流(ふしの・みちる)

兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。

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