『江分利満氏の優雅で華麗な生活』刊行記念 山口正介×宮田昭宏トークイベント&サイン会
羽生善治も認めた、文壇最強の将棋指し・山口瞳
宮田:そのなかで、一番山口さんが脂がのっていた時に、僕は『血涙十番勝負』でご一緒できた。「小説現代」で、プロの将棋指しと山口さんが将棋を指す、そしてその将棋指しのことをおもしろおかしく書くっていうことをされた。その担当が僕でした。これが今の出版状況ではちょっと考えられないような贅沢な企画でして、ものすごくお金がかかったんです。山口さんの原稿料だけじゃなくて、将棋を指すときに名人戦で使う旅館、ホテルを使おうと言うのですから、それはもう宿泊料が高い。食事をするのも高いし、将棋指しに棋譜の掲載料を払わなきゃいけない。それから、関西の人や愛知の人と指す時はそちらまで出向くので旅費がかかる。とまあ、いろんなことでお金がかかる企画でした。今の出版状況では、編集長がOKをくれないだろうと思うくらい。
山口:それはすごい(笑)。
宮田:これが本に単行本になった時に、山口さんが僕のためにサインをしてくれています。僕が結婚式を挙げた時には山口さんにも出ていただいてご挨拶をいただいたりしているんですけど、それがこの『血涙十番勝負』の続編の一番最後のところに僕の結婚式の模様がずっと書かれていて、うちでいうとこの本は家宝みたいなものです。つまり我が家の家族がここからスタートしたということでですね。ここに「春山の花咲かぬ木の美しさ」って、この「花の咲かない木」っていうのはたぶん僕のことだろうと思うんです。これが美しいかどうかは別としてですね、たぶん編集者っていうのは、裏方でいるけど助かっているんだよってことを僕に伝えていただいたんじゃないかなと思います。ただ、僕はこの連載が終わったときに将棋連盟から初段をもらうんですが、「君はこの功績でもらったんであって、実力で取ったのではないから、将棋会所に行ったり、他の人と将棋を指してはいけませんよ」と。「うちに出入りしてる男で将棋がうまくならなかったのは君だけだ」って言うふうに言われてもいます。
山口:ははは。
宮田:結婚してしばらくして、今度は京都に取材に山口さんと行くことになるんですけど、それが『湖沼学入門』です。将棋の方が終わってしばらくして山口さんのお宅に遊びに行った時に、「沼とか湖で暇そうな老人がずっと絵を描いてるよね。あれを取材したいんだけど」と相談を受けて、「それはおもしろいからやりましょう」と。最初は余呉っていう滋賀県の湖に行ったと思います。そのときに、竹中浩さんっていう陶芸家を訪ねた。竹中さんは絵付け前の皿や何かを用意しておいて、山口先生とかドスト氏(関保寿氏)とか訪ねて行くと、呉須で何か絵を描かせて、それを焼いたものをまた送ってくれるということをやっていた。僕は生まれて初めて、お皿に絵か字か何か書けといわれて、すごく困ったものですから、そこにあった土瓶を写して描いたんですね。これもうちの家宝のひとつです。京都行ったとき、うちの家内がちょうど妊娠していまして。で、この土瓶を描いたら、「土瓶の注ぎ口が子供の小ちゃいおちんちんによく似てるから、君の今度生まれる子供は男の子だよ」と山口さんがおっしゃって、その通り、男の子が生まれたものですから、私にとってはすごく思い出深いものなんです。
山口:その陶芸の話ですけど、誰が行っても絵付けさせてくれるというものじゃないので、急に皆さん訪ねて行って「俺にもやらせろ」と言っても……(笑)。おそらく竹中さんの工房で絵付けをしたのは、うちの親父とドスト氏ぐらいじゃないかなあと思います。実は僕も母もやらせてもらったことがあるんですけど、偶然、親が一緒だったのでやらせてもらった。宮田さんもおそらくはうちの親父が一緒だったので……。
宮田:そうですね。
山口:それから、将棋の話が出ましたけども、うちの親父は単に将棋愛好家ということじゃなくて、読んだ方はご存じだと思いますけど、強かったんですよね。(会場を指して)ここにいらっしゃる花田さんが羽生名人に「文壇でこれまで将棋指す人がいろいろいたけど、その中で一番強い人は誰だと思いますか?」と聞いたら、ちょっと考えて「山口さんだと思います」と。ただ、将棋指しっていうのは場を読むのが天才的にうまいので、「花田さんだったら、山口瞳といっておけば一番喜ぶだろう」と、こういう読みだったと思います(笑)。
宮田:(笑)
山口:ただし、本当に強かった。というのは、プロ棋士とアマチュアっていうか有名人で指すというテレビ番組があったんですけど、その第1回がうちの親父と内藤國雄さん。こちらが素人ということで、一枚落ちで指したんですが、序盤中盤非常に悪かった。解説の芹沢(博文)さんが「山口さん、なんで投了しないんだろう」っておっしゃってたんです。ところが、途中から「あれっ 山口さん、これ勝つんじゃないか?」って。で、勝ってしまった。これが将棋界で大問題になりまして。この番組、あと2、3回やって終わりになっちゃった。
川端康成邸における三島由紀夫との出会い、そして剣豪談義
宮田:今、電子全集の中で、正介さんはずっと山口家のこと、自分のこと、母親のことなどを連載的にお書きになっていますよね。その中で山口家が鎌倉で川端康成さんの隣に住んでいたというのは、これもまた皆さんご存じだと思うんですけれど、そこで三島由紀夫に会った話が僕はすごくおもしろかったですね。
山口:うちの親父が直木賞をとったあと、1回だけ、川端さんのお正月のパーティに出席したんです。毎年ずっと行われていたのに、自分なんかが行くのは恐れ多いということで行っていなかったんですけど、直木賞とったので一度くらいはお邪魔してもいいんじゃないかと。また例によって母と私も一緒について行ったんです。僕は中学1か2年ぐらい。川端邸のお正月というのは大変なもので、大広間があってそこにずらっと有名人、高名な作家が何十人並んでる。皆さん紋付、羽織袴。正面、床の間を背に川端先生が座ってらして。子供は子供だけの部屋がありまして、六畳くらいだったかな。「おまえはそっち行ってろ」ということで僕が行ったら、学習院の制服着たような、いいとこのお坊ちゃん、お嬢ちゃんたちが7、8人いたかな。僕なんか下町のろくでもないガキですからね。ちょっと困っちゃった。
宮田:それは困りましたね(笑)。
山口:そしたらそこに三島由紀夫さんが入ってきた。ポロシャツか何かラフな格好だったと思います。僕はその頃、さいとうたかをの『武芸紀行』という劇画を例の貸本屋さんで借りて読んでいたんですが、そこに出てくる鳴神鬼心という武芸者が、人相から考え方から三島さんに似てると常々思っていたので、三島さんにその話をしたんです。そしたら三島さん、ご存じのように漫画、劇画をよく読んでいらした。風吹波之進っていう悪い剣客が主人公で、この主人公が武芸紀行っていうか、修行していく成長物語なんですけど、だんだん人を殺すのがいやになって、剣というのは人殺しの道具じゃないか、そこで悩んでだんだん机竜之助(中里介山作『大菩薩峠』の主人公)みたいになって、陰のある、強いけれども、殺人剣になる。鳴神鬼心の方は剣禅一致みたいな方向に行って、最後に宿命的な対決をするんです。そのときの鳴神鬼心のセリフが「武芸者たるものの魂の道、剣なるものの心を聞こう」。そうすると悪い方が「剣は悪なり。魂の道。これ非道に通ずる」と応じる。そこで斬りあって、一閃二閃、両者相打ちに見える。で鳴神鬼心の方が「邪剣破れたり」ってセリフをいうんですけども、その後どうとばかりに地面に倒れたのは鳴神鬼心の方であったと。
宮田:「邪剣破れたり」が……。
山口:いや困ったなぁと思ったところに親父が入ってきて、「もう帰るぞ」と。「三島さんに今、劇画の話をしてたんだ」といったら、親父が「おまえ、劇画なんか読むのか?」。そしたら三島さんが「もちろん、さいとうたかを知ってるよ」。「おまえ、画面いっぱいに血がばあって出るように描いてあって、脇に『ドバーッ』って擬音が書いてあるんだぞ。おまえ、そんなのがいいのか?」っていって。三島さん、笑ってらっしゃった。「がはは」って、例の呵々大笑なさって。
宮田:ははは。
山口:私が20歳になった時に、学校で生徒たちがにわかに騒ぎ出して、何か事件が起こった。で用務員室でテレビ中継やってるからと、普段入れてくれない用務員室に僕ら20人くらいで学生たちが入って。そしたら三島さんがバルコニーにいて、演説してらっしゃる。その姿がまさに、この時の鳴神鬼心とまったく同じポーズだったんですよ。ここにありますけども。まるでバルコニーの上に立つように、丘の上に立っていたのが鳴神鬼心。そして演説の内容っていうのが、まさに「剣なるものの心を聞こう」というようなもので、そのあとのことは皆さんご存じだと思います。僕はそのテレビを観ながら、うちの親父が「おまえ、血がドバーッだぜ」っていうのを思い出して、まさかあれが本当になってしまうなどとは、ちょっと恐ろしいような気がしました。まあ、そんな思い出があるということでございます。
宮田:その話の時に、ポロシャツを着ている三島さんが筋肉をムキムキ……だったのかな?
山口:そうそう、三島さんが力こぶ出して、「坊や触ってみなよ」という感じで。僕はこう触って。僕は山口家の人間なので、生まれついての幇間体質と自分でいってるんですけどね、その場を取りもつように、親父に「ほら、パパもこのくらい鍛えなきゃだめだよ」なんていってね。うちの親父も「そうか」なんて。で、その場はそこで終わったわけです。
宮田:これはすごく興味深いことで、この話なんかは電子全集の中の正介さんのものを読んでいただくとおわかりいただけると思うんですけど、三島由紀夫が剣道をやっていたりして、大広間から逃れるようにして子供部屋に来て、筋肉を触らせたり、それから「剣の道」について子供が語ることに真摯に耳を傾けたような、ある種の三島さんの新しい像みたいなものが書かれているんじゃないかなと思いました。
山口:そうかもしれませんね。
人間の死に様を書き残したかった父・山口瞳
宮田:最近、坪松(博之)さんっていうサントリーの宣伝なんかをやってらっしゃる方(正確には、CSR推進部長)が『Y先生と競馬』(本の雑誌社)っていう本を出されまして、実はこのY先生のYは、山口のYなんです。僕も読みましたけど、とてもいい文章で、山口さんとの晩年のおつきあいのことをずっと書いてらっしゃるんですね。僕はあいにく競馬っていうのが全然だめでして、実はやったことがないものですから、買い方もよくわからないんですが、この坪松さんは晩年の山口さんと奥さんとよく競馬に行って、山口さんはだいぶ損したりするんですけど、坪松さんはおおいに当たったりなんかする。ただ晩年の癌の闘病、それからホスピスに入院されてっていう、とてもつらい山口さんとずっとつきあってこられた。僕なんかも傍から見てて、本当によく尽くされたなあっていうふうに思っているんです。「男性自身」というのは、いくつかスタイルを変えてきてはいるんですけど、この入院されるときに、日記体に変わるんですね。
山口:今「男性自身」を最初から読んでいるんですけど、うちの親父が51、2の頃からそう長くない、確かに精も根も尽き果てた、肉体的にもぼろぼろ、精神的にもぼろぼろの状態になっていました。それで日記体にしたっていうのは、そういう人間が少しずつ弱って死んでいくところを記録していくのもいいんじゃないかっていう意図なんです。そしたらなかなか死なないんで、また元の普通のエッセイに戻した。実は日記体にしてから、ファンが減ったという印象がありました。山口瞳っていうのはサラリーマンの味方で、清貧で、庶民の味方っていう感じがあった。ところが、日記を読んだら毎晩銀座で飲んでる、京都に行ったらいいところに泊まって、祇園で遊んでる。ふざけるなって感じで、ずいぶん評判を落とした、ファンが減ったという感じを僕は受けていたんですけど、どうですか?
宮田:どうなんでしょう。まあ、日記体っていうのは読むとちょっとつらい部分があるんですね、読者としては。そのなかに混じっていけないというか、そのへんが少し部数を減らしたことになったのかもしれないなと思います。それでものすごく痛い手術をされたりして、それでいわゆる、山口さんは社会的なものへの敏感なアンテナを持ってらした方なので、それは今、癌で戦って、最後にどういうふうに亡くなるかということについて、最終的にホスピスでの生活っていうのを選択した。これはどなたが選ばれたんですか?
山口:親父はこういう人間がこういうふうに死んでいくっていうことを、日記体にして包み隠さず書きたいと思ってたわけですけど、実は当時はまだ癌の場合は告知というものはなされなかった。だから残念なのは、自分の本当の病気を知らないで死んでしまったんです。ホスピスにもう少し早く行ければよかったと思うんですけど、それがなかなか難しくて、ついホスピスに入院した翌日に亡くなってしまった。ホスピスの先生も、うちの親父がホスピスに着いた時に「まさかこんなに状態が悪いと思っていませんでした」と。僕は現場にいなかったので、あまり触れてなかったと思うんですけど、ホスピスの病室に落ち着いた時に、上半身を起こして「ありがとう」って先生にいったそうなんです。だけどもう、喋ることもできないし、目も虚ろな状態で、そんなことができたのかなってびっくりしたんです。でも先生がそうおっしゃったんでね。
宮田:ホスピスに入るって決断をされたのは治子夫人だったんでしょうか?
山口:母と僕と、それと今、新潮社にいらっしゃる石井(昴)さんと3人。これはもう手の施しようがない、どうしようもない。これ以上手術したり、終末医療で苦しめたくないと。最初からホスピスという選択肢はあったんですけど、当時はホスピスというところの考え方をお医者さんもよく知らないような時代。21年前ですね。今年二十三回忌なんです、父の。今ならホスピスっていうのは認知されていますが、当時は姥捨て山みたいなもの。あそこに行くと治療はしてもらえないですよ、殺されますよと先生がいうような時代だったんです。その前から親父が、もしものときにチューブつないでスパゲッティ状態になったり、あるいは心肺停止したときに電気ショックをやったり、ああいうことは俺は嫌だからねっていっていたので、ホスピスという選択になったんです。
宮田:そういうことでホスピスに移られて、すぐにお亡くなりになった。そして大変暑い日でしたけど、葬儀ということになりまして、私もお手伝いいたしました。葬儀は自宅でやってくれという山口さんのご希望だったものですから。ここからまた、葬儀はどういうふうになったかという一席があるんですけど、今もう時間だよと耳打ちされましたので、これは次回のお楽しみということにさせていただければと思います。 ――ありがとうございました。