◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

『松前志』の記述に引っ掛かりを覚える伝次郎。玄六郎が蝦夷地で接触した先住民は──。

 佐藤玄六郎らが先住民もふくめて慎重に調べた限りでは、安永七年と八年にロシア人がノッカマップとアツケシに渡来した際、松前藩の者が「幕府法により交易はできない」として通商を断ったのは事実だった。しかし、それを幕府に何の報告もしなかったのは、松前藩の重大な過失となる。

 また、ロシア人は、その後も毎年ウルップ島までラッコ猟のために到来し、少しばかりの品物を持って来た。蝦夷地の先住民も、ウルップ島へラッコ猟に行き、持って行った米や煙草などで得たロシアの製品を運上屋の商人に差し出したりした。ロシア人が持って来た品物は、羅紗(らしゃ)、錦、更紗、木綿、砂糖などで、オランダ人が長崎に運んで来るのと同様の品だった。各運上小屋と支配人らを調べたが、ロシア人とおおっぴらに交易しているような証拠は出てこなかった。飛驒屋などの手先の者が、ウルップ島まで出向きロシア人と直接売買をしたとの話も耳にしなかった。

 そもそもロシアによる蝦夷地侵略の風聞は、ハンベンゴロフことハンガリー人のベニョフスキーなる人物が、明和八年(一七七一)にオランダ商館長を経由し幕府へ警告書を送って来たことに端を発していた。ベニョフスキーは、ポーランド独立戦争でロシア軍の捕虜となり、カムチャッカの獄に送られ、船を奪い脱出して奄美(あまみ)大島から長崎のオランダ商館長へ書簡を送って来た。

『来年以降、ロシアは松前と北緯四十一度三十八分以南の近隣諸島すべてに対し攻撃を企てているので、幕府は北方の地防衛のため船を出してロシア侵略を防ぐべきである』とする内容だった。

 未知の大国オロシャによる侵略を警告したこの書簡に触発され、工藤平助は『赤蝦夷風説考』を書いた。しかし、赤蝦夷すなわちロシアが日本侵略の陰謀を図っているという風聞と、実情はかなり隔たっていた。ロシア人がウルップ島に来るのはラッコ猟のためであり、交易の目的も米などの食糧を彼らが補給したがっているに過ぎなかった。交易品もオランダ船が長崎に運んで来る品々と似たようなもので、「交易したいならば長崎へ行け」という松前藩の対応は間違っていない。ロシア交易のため蝦夷地へわざわざ新たな開港地を考えるほどの規模ではないと思われた。

 

     二十三

 天明五年八月、幕府は、下総(しもうさ)北部の印旛沼(いんばぬま)干拓につき、新田開発の請け負い希望者の募集を開始した。やがて干上がることになる三千九百町歩(約三千九百ヘクタール)の沼地を、応募してきた者に三十町歩(約三十ヘクタール)や五十町歩の単位で請け負わせ、新田として開拓させるためだった。

 印旛沼干拓は、享保九年(一七二四)に一度試みられたものの、難工事によって挫折を余儀なくされていた。田沼政権下で再び開始されたこの干拓事業は、印旛沼が利根川とつながる安食(あじき)村でまず利根川の流入を遮断しておく、そして沼の水を抜くため沼の西端から検見(けみ)川まで四里十二町余(約十七キロメートル余)の堀割をうがって江戸湾に水を落とし、結果として三千九百町歩の新田を造成する計画だった。

 このたびの干拓計画は、地元の印旛郡で幕府領代官を務める宮村孫左衛門の着想に始まった。宮村は、扶持米二百俵取りの小普請組家の養子に入り、出羽村山の幕府領代官を皮切りに甲斐(かい)や駿河(するが)の代官を経て、明和八年(一七七一)に印旛、葛飾(かつしか)、埴生(はぶ)各郡の代官となった。出自不明ながら才覚ひとつで成り上がった当世勘定所ならではの人物だった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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