◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

『松前志』の記述に引っ掛かりを覚える伝次郎。玄六郎が蝦夷地で接触した先住民は──。

 安永九年(一七八〇)、宮村代官は、地元の惣深(そうふけ)新田村の名主平左衛門と島田村の名主治郎兵衛に印旛沼干拓案を提出させた。工事資金が六万六百六十両、延べ人足は二百四十二万六千四百二十五人にのぼるという一大事業計画となった。

 翌天明元年(一七八一)、宮村は、巨額の工事資金を得るため江戸浅草の長谷川新五郎と大坂の天王寺屋藤八郎と会い、完成した新田の配分を長谷川新五郎と天王寺屋が八割、世話人の平左衛門と治郎兵衛が二割を取るという取り決めで、出資の同意を得た。

 天明二年(一七八二)七月、勘定奉行所で印旛沼干拓の実施が決定された。大開発事業にしては、計画案の提出から決定まで足掛け三年の短期間で実施にこぎ着けた。印旛沼の干拓が成功すれば、広大な新田が生まれるだけでなく、これまで利根川が増水するたび水害に見舞われてきた下総北部の周辺各村も大いに助かることになる。

 天明四年(一七八四)三月には勘定所から役人が派遣され、工事の杭打ちと測量が行われた。現地役所を下市場(しもいちば)村に設け、勘定所普請役の猪俣要右衛門ら多数が出向き、工事の指導と監督にあたる運びとなった。

 

 天明五年十月十日、佐藤玄六郎は、先住民の板つづり舟で寒気厳しき東蝦夷地アツケシを発し、松前へ向かった。海上におけるあまりの寒気に、玄六郎も同乗する先住民と同じくアザラシ毛皮の防寒帽をかぶり、足にもアザラシ毛皮の長靴を履いた。アザラシ毛皮の防寒上着を着て、鹿皮の股引きを穿(は)き、脚絆(きゃはん)もアザラシの毛皮でできていた。アザラシの毛皮は軽く暖かく、雪や海水にも強かった。とくに靴底にしたアザラシ皮は雪や氷でも滑りにくい利点をもっていた。

 先住民は、松前藩が玄六郎らに語った人々とはまるで異なっていた。極めて正直で礼儀正しく、慈敬と仁愛の念を備えた人々だった。天、地、海、祖先を深く敬い、一杯の酒を口にする時にも、それらの神々にまず供えることを忘れなかった。

 厳寒の海を航行するうち彼らが勧めてくれるままに、獲ったばかりのアザラシの生肉を玄六郎は初めて口にした。なかば凍った肉片は臭みもなく、口にしたとたん身体中がボッと一気に温まるのを覚えた。米飯に味噌汁、火を通した肉や魚では得られない感覚だった。

「これはすごいな」と思わず玄六郎が驚嘆の声を上げると、先住民は微笑んで応(こた)えた。それからは彼らが食べるものと同じものをとるようにした。寒さがやわらぎ身体が楽に動くようになった。北方の民には、その地で生きる智恵があり、それに従わなくてはとても生存できないことを身にしみて知った。ソウヤで耐寒訓練をかね越冬する庵原弥六らも、その地で生きる先住民にしたがって日々を送っているものと玄六郎は信じて疑わなかった。

 蝦夷本島を一巡して、たとえ大雑把な数字でも蝦夷本島周囲の距離を出さなくては、耕作可能な面積を推算できない。明くる年早々には勘定奉行の松本秀持に、松前藩とオロシャ、蝦夷地について当年における検分結果の報告書を出さなくてはならなかった。このところ江戸でしきりに話題となっていた下総の印旛沼干拓による三千九百町歩の新田見積もりより、はるかに大きな数字が飛び出すことになる。松本秀持ばかりか、その上の田沼意次も驚嘆するに違いなかった。

 玄六郎は、天明元年(一七八一)に松本秀持から無人島(小笠原)御用として八丈島の東南海域へ遣わされながら、結局発見できず土佐(とさ)まで流されるという失態を演じていた。蝦夷地検分の指揮役を任されたことは、玄六郎に汚名を晴らす機会が与えられたようなものだった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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