◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

『松前志』の記述に引っ掛かりを覚える伝次郎。玄六郎が蝦夷地で接触した先住民は──。

 船体の基底材にあたる航(かわら)の長さは七十一尺五寸(約二十一・七メートル)ながら、紡錘(ぼうすい)形をなし、弁財船(べざいぶね)のものよりも幅が狭く、厚みは倍ほどもあった。しかも、船首と船尾に当たる部分の厚さが同じ五尺(百五十センチ)という奇妙な形状をしていた。洋式船の航の形に似ていた。やはり、船体は、洋船仕様の肋骨(竜骨)二十本で骨組みされ、そのうえ船内は七枚の隔壁が仕切るという唐船ジャンク仕様の構造も加えられていた。

 それでいて船の上部は、横に渡した腰当船梁(こしあてふなばり)の、外板からはみ出した左右の端から垣立(かきだつ)を組み上げ、また垣立から梁を渡して矢倉(やぐら)を組み上げるといった、日本の弁財船の造りをなしていた。

 帆柱は、一辺が二尺八寸(八十五センチ)の角材で、長さ九十二尺五寸(二十八メートル)。張られる帆の幅二十五反、長さ七十三尺(二十二メートル)という一枚帆の、弁財船の仕様。それに逆風帆走時のため、船首寄りに八反の表帆と三角帆、船尾に六反帆を張るといった洋式の補助帆を設定していた。

 この『三国丸』と名付けられた巨大船は、その名のごとく船体は中国船と西洋船の折衷で、上部構造は日本式、いわば三国の造船様式を組み合わせたものだった。先に蝦夷地探索のため幕府が建造した『神通丸』と『五社丸』に続き、幕府勘定所と長崎奉行支配下の長崎会所が、弁財船の弱点を補強し、外洋航海も十分可能な千五百石積みの大船を造ろうとした。冬の日本海は荒れ、これまで長崎と松前を結ぶ船は年に一往復しかできなかった。この船ならば年に二度の往復航海も可能となる。

 天明五年二月、長崎会所は、蝦夷本島の箱館(函館)に長崎俵物(たわらもの)会所を設置することを決め、長崎会所役人の吉野助十郎らは、普請役の佐藤玄六郎らと松前に渡り、箱館へ長崎会所の支所を開いた。そして幕府は、清国に向けて輸出するアワビ、ナマコ、フカひれ、昆布などの乾燥品「俵物」について、これまでの各地の指定問屋が買い集める方式を廃止し、長崎会所が船を廻して直接買い入れ、専買制とする触れを出した。有力な輸出品である北海の海産物を長崎会所と幕府勘定所が徹底管理し、これまでの請け負い商人による横流しを極力防ぐ手立てをこうじた。

 この年、日本の海運に一大変化をもたらす画期的な帆布が出現した。播磨(はりま)国高砂の船頭だった松右衛門(まつえもん)が産み出した、松右衛門帆である。それまでの帆布は、薄い木綿布の二枚を重ね合わせ太糸で縫い合わせた刺帆(さしほ)だった。刺帆は、作るのに手間がかかるうえに強風ですぐに破れるため、強風下では船を出せないことが多かった。松右衛門帆は、刺帆の糸よりはるかに太い糸を使って織り上げた織帆(おりほ)で、数倍の強度を持っていた。値段は刺帆の倍はするが、松右衛門帆の出現によって強風でも風待ちせずに出航でき、航行速度もはるかに増した。三国丸にこの松右衛門帆を用いれば、まさに鬼に金棒、松前と長崎間の年二回往復は充分可能と見えた。

 天変地異が相次ぎ、打ち出す策はことごとく裏目に出て、苦境にさらされた田沼政権ではあったが、印旛沼干拓、蝦夷地開発、長崎貿易の増進と財政好転の材料が次々と用意され、失地回復に向けて確実に歩を進めるかのように映った。

(連載第8回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年9月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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