◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編

『松前志』の記述に引っ掛かりを覚える伝次郎。玄六郎が蝦夷地で接触した先住民は──。

 

 玄六郎が松前に着いたのは、十一月も半ばとなっていた。大千軒岳をはじめ北に連なる山々は雪化粧して、吹き下ろしの風は身を凍らせるほどだった。蔀戸(しとみど)を下ろし葦(あし)で雪囲いした城下の家々の屋根にも、雪が降り積もっていた。

 松前城下で、皆川沖右衛門、山口鉄五郎、青嶋俊蔵に再会し、勘定奉行松本秀持に上げる報告書に早速とりかかった。

 普請役の総意として、対オロシャをはじめ山丹交易、先住民交易における抜け荷や本土商人の取り締まりのため、蝦夷本島の開発を先んじて行うべきだと考えた。

 蝦夷本島の地味はいたって良く、用水もいたる所に大小の川が流れ不便がない。しかも、先住民は、北に位置するノッカマップでも農作を切望していた。彼らに農具を与え、種子を渡し、作り方を教えれば、相当な土地の開墾が可能と見えた。

 問題は、耕作可能な面積をいかに見積もるかにあった。佐藤玄六郎は、幕臣で初めて蝦夷本島の一周をなしとげたものの、実地測量をしたわけではなかった。大雑把な数字しか示しようがなかった。

 松前藩では、寛文元年(一六六一)に吉田作兵衛なる者が蝦夷本島を一周し、その結果得た約八百里というのが定説となっていた。その吉田某は、夏の四月二十七日松前を出帆し、東回りで秋八月二十五日に西北部から帰帆したという。夏に東回りならば、一旦津軽海峡を渡って下北半島の佐井に行き、そこで東南風を得て東蝦夷地へ向かわなくてはならない。帰帆する際も、帆船では逆風となる西方から松前に直接回り込むのは難しく、やはり一度下北半島の青森や三厩(みんまや)などに寄港して風待ちをし、松前の福山港に入るのが通例である。そこで、百里を引き、おおよそ七百里という距離として算出することにした。

『蝦夷本島の周囲おおよそ七百里ほどの内
一、おおよその平均縦百五十里、横五十里(但し、三十六町を一里として見積もる)、全体の面積を千百六十六万四千町歩として、新田畑を開発できるのをこの十分一と見積もり、百十六万六千四百町歩あるものと推定する。
そして、その収穫高は、おおよそ五百八十三万二千石になると思われる。
但し、内地諸国における田畑の収穫高の半分として、一反につき半石を収穫するものとして算出した。田畑開発に適さない山川、湖沼、海岸など十分の九の地域は除外した』

 印旛沼干拓の三千九百町歩などとは比較にならない規模の開発可能地面積に、佐藤玄六郎ら普請役は興奮を隠しきれなかった。いかにも田沼時代の、山師的な、まったくの憶測による新田畑開墾可能面積に過ぎないものだったが、一度出した数値は独り歩きする。

 

 天明五年十一月、長崎会所は原三郎右衛門を大坂に派遣した。長崎会所が、このたび新たな船を建造するにつき、大坂の銅座役所に船大工を集めて図面と仕様書を示し、建造の入札にあたらせるためだった。長崎会所は、銀五十貫(金約二千五百両)までならば大坂で建造させるが、それ以上高値に見積もられた場合には長崎で建造すると示した。

 原三郎右衛門が大坂で船大工たちに見せた千五百石積み大船の図面は、それまで彼らが目にしたことのない異様なものだった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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