◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編

佐藤玄六郎は蝦夷地から江戸に戻る。
勘定奉行の松本秀持の目を引いたものは──。

 天明元年(一七八一)一月、将軍家治の命により、田沼意次が主宰して将軍後継者たる世子(せいし)の選定が行われた。五月、当然のことながら養子の豊千代が将軍世子に選定される運びとなった。その七月、田沼意次は将軍世子選定の功により一万石の加増にあずかった。いよいよ田沼政権は磐石のものと見えた。

 しかし、その天明元年にいたってやや持ち直したかに見えた幕府財政は、米も金も赤字に転落した。米は四万四千四百七十八石、金は九万七千六百六十四両の赤字を計上することとなった。

 落書にいわく、『世にあふは道楽者におごりものころび芸者に山師運上(うんじょう)』『近年多きものつぶれ武士、乞食旗本、火事夜盗、金貸座頭(かねかしざとう)、分散の家』。

 田沼意次が、財源を商人株仲間からの運上金に頼った結果、上下の別なく金銭欲をむき出しにした市場の世をまねいた。そこでは金銭の多寡が人の価値を決め、いかに労少なく金銭を稼ぐかに憂き身をやつし、いかに他人を騙して金銭を集めるかに賭ける相場師、山師のごとき者ばかりがはびこった。士風は廃れ農村は荒れ放題、工商を生業(なりわい)とする町人と都市遊民ばかりが大手を振って往来を闊歩する有様となった。

 翌天明二年の声を聞くと田沼政権に憤懣(ふんまん)をつのらせる譜代の門閥層が、松平定信に接近し始めた。陸奥(むつ)・泉藩主の本多忠籌(ただかず)、出羽(でわ)・上山(かみのやま)藩主の松平信亨(のぶつら)、播磨(はりま)・山崎藩主の本多忠可(ただよし)、美濃(みの)・大垣藩主の戸田氏教(うじのり)、豊前(ぶぜん)・中津藩主の奥平昌男(まさとき)、近江・宮川藩主の堀田正穀(まさざね)らである。彼らは江戸幕府開闢(かいびゃく)以来の直接幕政を担っていた譜代名門の血流ながら、五代将軍綱吉時代より幕政から遠ざけられ、小藩主の悲哀ばかりを味わわされてきた。本来ならば将軍位を継ぐべき松平定信が、田沼意次の暗躍によってその芽を摘まれた。その遺恨が定信の心中深くに刻まれたことは、彼らの想像に難くなかった。田沼意次の追い落としを謀る者たちにとって盟主たる格好の逸材が出現した。

 天明三年十月、松平定信は、養父定邦の隠居にともない白河藩主となった。二十六歳の若き藩主は、折からの大飢饉もものかは、倹約令を出して自らその範を示すと同時に、大坂から白河へ米や小麦を大量に移入させた。津軽藩、仙台藩などが壊滅的な餓死と疫病死を出したのに対し、白河藩では餓死者を一人も出さなかったと伝えられ、たちまち名君の誉れを天下に轟(とどろ)かせた。

 田沼政権下、天明元年からの財政赤字は折からの天候不順と災害に見舞われ、翌二年にいたって米は五万七千二百五十四石、金は十一万三千二百二両の赤字を計上するにおよんだ。続いて天明三年からの大飢饉は、米六万五千四百七十六石、金三十万四十九両もの巨額赤字を計上した。幕府財政は、享保の改革によって金蔵に備蓄した金を放出し、何とか破綻をまぬがれるしかない非常事態に陥った。

 そうして迎えた天明四年(一七八四)三月、意次の後継者、田沼山城守意知が江戸城内で佐野善左衛門に斬殺されるという凶事が勃発した。佐野善左衛門は世直し大明神と民衆からたたえられ、田沼意次が一日も早く幕政から撤退することを願う声が巷(ちまた)にあふれた。

 田沼意次にとって、松平定信は自らの政権運営に対する批判勢力の盟主たる存在であり、彼が溜間に座を占める事態は何としても阻止しなくてはならなかった。ところが、田沼政権下において松平定信が溜間詰となった。それは江戸城内において意次の力が明らかに低下したことを意味した。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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