◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 後編

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歴史小説の巨人・飯嶋和一が描く新たな田沼時代、連載開始!

 

 四月十二日、日も暮れた六ツ半(午後七時頃)、田沼山城守意知の棺(ひつぎ)は、葬儀のため神田橋の屋敷を出て駒込の勝林寺へと向かった。葬列が三河町に差しかかった時、乞食(こつじき)の八、九人が寄ってきて物乞いをしたものの、一文のほどこしもなかった。乞食たちは田沼父子を罵り始め、棺に向かって石を投げつけた。それを聞きつけた町人たちも道々集まってきては罵声と投石を浴びせ続け、葬列はほうほうの体で駒込の菩提寺にたどり着いたという。

 殿中で田沼山城守を斬殺した下手人が世直しの大明神に祭り上げられ、凶刃に倒れた若年寄は悪口雑言を浴びせられてその葬列にさえ石を投げつけられる始末だった。偶発的に起こったように語られていたが、その夜田沼山城守の葬列が駒込に向かうことを知っており乞食たちに金銭を与えて、あえて騒ぎを引き起こした者がいたに違いなかった。

 

 同月十六日、丸屋が訪ねきて話すには、幕府から旗本や御家人などに触書(ふれがき)が出され、役所などで同僚の様子が尋常でなく見えた場合には急ぎ遠慮なく休養させるよう通達されたとの話だった。佐野善左衛門の一件は、尋常心を失ったあげくの凶行と決めつけた評定所の判定を裏付けるものだった。

「乱心による凶行ならば、田沼山城守一人だけが斬殺され、二十数名がその場に居て手傷を負った者が一人もいないのは理屈に合いません」と丸屋は憤った。

 丸屋は、佐野善左衛門の斬奸状(ざんかんじょう)なるものの写しまで持ってきた。芝神明宮前の水茶屋で行商の草双紙(くさぞうし)売りから手に入れたという。佐野が凶行の前に宿所へ十七ヶ条からなるそれを書き置いたという話になっていた。何者かが銭儲けのためにこしらえ上げた偽書であることは明らかだった。

『一、依怙贔屓(えこひいき)をもって諸士に立身をいたさせ、あまつさえ諸役人を己が党に引き入れ、なかんずく水野出羽守向かい筋の弟、寛次郎を松平源八郎跡目といたし、己が次男中務(なかつかさ)をもって水野家を奪い取り候』

『一、諸運上(うんじょう)おびただしく取り立て、諸民困窮いたさせ候』

『一、蛮国の流金をもって後藤庄三郎(金座支配役)へ下役の者どもへ誓い状をいたさせ、六割半の積もりをもって天下の金子を図りたてまつる。贋金は天下の制禁、もしまた犯す者はその罪磔刑(たっけい)になり、権威をもって己は贋金をこしらえんと企む』

『一、奥向きを手入れ、御小納戸(おこなんど)御吟味(ごぎんみ)の節、御役にも立たざる者を、金子を取り、謹功の者の子息を差し置き申しつけ、あまつさえ玉澤(たまざわ)殿と申し合わせ、我がままを取り計らい、女謁(じょえつ)を盛んになし、君(きみ)を穢(けが)し奉(たてまつ)る』

『一、当正月、御乗り初(ぞ)めの節、諏訪(すわ)文九郎より御代(みよ)の御吉例(おきちれい)、御乗り初めに乗らせられ候御鞍(おんくら)を拝領いたし、神祖(しんそ)代々を恐れ奉らず己が乗り鞍にいたし候』

 幕府は何であれ政事向きを題材に取り上げればそれだけで厳しく処罰してきた。江戸の講釈師・馬場文耕(ばばぶんこう)が、美濃郡上藩の金森家による悪政を講談に仕立てて指弾し、獄門となったのは宝暦八年(一七五八)十二月のことだった。文耕の一件にからんで貸本屋渡世の十人が挙げられ、それぞれ追放刑から科料までを課せられたことは語りぐさとなっていた。

 佐野善左衛門の斬奸状を装いながら明らかに老中職にある田沼意次への非難であり、こんなものまでが野放しに売買されていること自体が異様なことだった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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