芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第19回】
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父と子の血肉の戦いの舞台となる長良川の源は大日ヶ岳──通称三国山より発する。三国山は美濃、飛驒、越前三国の国境に跨がる雪深い高山で、晩春であっても残雪が山体に複雑な白銀の縞模様を描いていた。流れる水も雪融け水である。刺すように冷たい。
龍重龍定の義兄弟を屠った義龍は、直後に一色左京大夫と名門一色家を名乗って土岐姓に復帰し、同族姓にあらためた。これは道三が龍定に一色右兵衛大輔を名乗らせようとしていたという巷の噂を真に受けて、それに対抗しようという強い気持ちのあらわれであった。
討たれてやると決めた道三だが、戦うとなれば峻厳である。一切手を抜かない。龍重龍定の死の直後、わずか三百の手勢を率いて義龍が籠もる稲葉山城下を焼き払い、さらに稲葉山にも火を放ち、裸城にした。
これで義龍は稲葉山城に籠城して戦うにしても、若干の不利を押しつけられることとなる。道三は禿げ山になった稲葉山とその城下を長良川河畔につないだ馬上にて腕組みして見やり、呟いた。
「我が丹精込めたこの城下を焼くことになろうとはな。自らが火をかけることになろうとはな」
口許には苦笑いが泛んではいたが、その目は悔悟とは無縁の強い力に充ちていた。
丸裸にされた義龍は
「苛烈なり、熾烈なり──」
父を倒して、乗り越える。
だからといって力まかせに反撃に出るような甘い義龍ではない。即座に父と一戦交えたい心をぐっと抑えこんで、美濃内の国人に対する調略に励んだ。
美濃における土岐氏の旗印は、義龍が思っていた以上に効きめがあった。次々に義龍に靡く国衆たちには、油売りという道三に対する謂われのない軽侮があった。
それを微に入り細をうがつといった按排で虚実交えて下々にまで広めたのは、調略とはそういうものであると冷徹に判じた義龍であったが、一方で
伝統だの名門だのに
つい先頃までは拝領妻のやたらと大柄な小倅と蔑んでいたくせに、下賤の噂にのって土岐氏に復帰してみせれば、卑しく損得を勘案して平然と義龍に付くのである。
されど丹念な調略の甲斐あって義龍に付き随う将兵は一万七千をはるかに超えた。
土岐氏正統と声高に叫ぶ義龍と対照的に、正体不明の油売りという出自を義龍に拡声されてしまった道三の許に参集した将兵は、二千弱。これではいかに道三であってもまともな戦はできぬ。道三は直接対決を避け、長良川を超えて
翌年の雪解けとともに双方に緊張が
二千の兵にすぎぬ。小競り合いで幾人かを喪うのさえ惜しい。ゆえに道三は昨年末より大桑城から北野城へと移動し、さらに家臣の林
「義龍め、やりおるのう。晩春とはいえ、まだまだ冷たい川水に這入ってしまえばいかに精鋭といえども我が兵の動きも鈍る。多勢に無勢であるが、その数の差がますます開く。つまり、まったく太刀打ちできぬ。俺もおまえも美濃を、そこを流れる河川を知り抜いているということである。織田信秀の軍勢を増水している木曾川に追い込み、突き落としたあの戦を
道三に心酔している柴田角内が、なんとも嬉しそうに延々独白する道三に、そっと怪訝な眼差しを向ける。
御屋形が死を覚悟していることは悟っていたが、それにしてもまるで充分に成長し、父を乗り越えんとする我が子に対するような慈愛の眼差しを見たからである。
道三の頼みの綱は、危機を知った娘婿の織田信長が内患により緊張状態にある尾張を
それを知った義龍は、信長が長良川河畔にまで到る時間を勘案して即座に陣容を整え、二日後に一気呵成に道三にむかって攻め寄せるのであるが、信長も圧倒的な人員を誇る義龍が、まさか稲葉山城から出てくるとは思っていなかった。
南泉寺の道三は、さて義理に篤い婿殿は間にあうかのう──と、
勘九郎はこのような
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見事に晴れ渡って、鳶が蒼穹にゆるやかな円を描く。北岸に構えた道三は、義龍の先手である竹腰道鎮率いる騎馬武者が事もなげに長良川を渡河してくることに目を剝いた。
「どうやら、我々が離れているあいだに川底に石など積み、浅場をつくりあげて渡河戦に備えておったようでございます」
道三は陽射しを浴びて白銀に輝く槍や太刀が迫りくるのを目を細めて見守り、呟いた。
「さすが、義龍。侮れぬのう」
義龍先手が円陣を組んでいるのを見てとって、道三は将兵を左右に散開させた。あえて雑にばらけさせる。
成り行きを望遠していた義龍もだが、馬上で手綱を引き絞り、前傾して疾駆する竹腰道鎮も得意満面であった。道三の采配が、思いもせぬ渡河により、狼狽えているようにしか見えなかったのである。
が、誘いであった。
道三の旗本たちは怖じ気づいてなどいなかった。道三の采配にあわせて寄せては引きを繰りかえす。義龍から見れば乱戦である。けれど道三は全体を俯瞰し、冷徹に水も漏らさぬ采配ぶりで数で劣る自軍を指揮し、常に的確な間合いを取り、弓矢にて戦闘不能に陥れるばかりか、さらに竹腰道鎮の護りを蹴ちらして、一気にその首を挙げた。主を喪った竹腰勢は脆くも敗走である。
「さすが、くちばみ」
義龍は笑んだ。
同じころ、見たことか──と道三も笑んでいた。間近にいたならば、父と子は見交わして頷きあっていたことであろう。
対岸から槍の穂先に突き刺した竹腰道鎮らしき首を誇示する道三の軍勢を見やりつつ義龍は、間髪を容れず決心した。
「よし。先陣を撃破されたことは大層な恥ではあるが、相手はくちばみである。数を頼んで
家臣が止めるのも聞かず、義龍は愛馬に飛び乗ると、烈しく鞭をくれた。義龍旗本たちが間にあわぬほどの勢いであった。
銀の飛沫を彼方に置き去って一騎、駆け寄る騎馬武者を凝視していた柴田角内が、感に堪えぬといった声で道三に告げる。
「あれを
新九郎は義龍の通称である。委細かまわぬ義龍の勢いに出遅れた家臣たちだったが、主の武者振りに鼓舞され、全力で付き随ってきた。
戦とは畢竟喧嘩、気力が横溢すれば勝利は自ずと手の内である。まして兵力の差は八倍以上あるのだ。結果は自ずと知れよう。
道三は笑みを泛べたまま首を左右に振り、うんうんと大きく二度頷いた。柴田角内がそっと上目遣いで道三の表情を覗う。あきらかに愉しんでいるのである。強敵であること、それが我が息子であることを、慈しんでいるのである。