【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第13話どえむ探偵秋月涼子の忖度
人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第13回目は、「どえむ探偵秋月涼子の忖度」。「忖度」が意味する出来事とは……? 冒頭から引き込まれる臨場感あふれるストーリーに、目が離せません!
1
また、あれをやるしかないのか──と、聖風学園文化大学三年生の新宮真琴さんは、小さな吐息をついた。
その吐息の意味を勘違いしたのか、正面に立っている薄ハゲの小男が、下卑た笑い声をあげた。
「お嬢ちゃん、どうしちゃったのお? さっきまでは、ずいぶん威勢よかったのに。もしかして、感じちゃってるのお?」
そう囁きながら、真琴さんの股間に忍ばせた指を、くねくねと動かす。その手を払いのけようとした途端に、電車が揺れ、真琴さんの上半身も、ぐらりと揺れた。しかし、足元はよろめかない。よろめく隙もないほど、左右からぴったりと男の体に挟まれてしまっているのである。しかも、両側に立った二人の男も、それぞれ真琴さんの身体をまさぐり続けている。
右側に立っている背の高い三白眼の男が胸を、左後ろに立っている太り気味のメガネをかけた男が尻を、さっきから執拗に揉みしだいてくるのだ。その二人の鼻息が首筋にかかって、気色の悪いことこの上ない。
田舎を走る私鉄の終電。二両編成の古い車両に乗っているのは、真琴さんとその周囲を取り囲んだ三人の男のほかに、五・六人というところか。ほんの少し前、「この人たち、痴漢です」と声をあげてみたのだが、誰も助けに来る気配はない。
2
やっぱり、やるしかないな──
と、心を決めた真琴さんは、しおらしくうつむいて、小さな声で言った。
「すみません。とにかく、もう放してください」
「あれえっ」と、正面にいる薄ハゲの小男が、さらに激しく真琴さんの股間を揉みしだきながら言う。どうやら、こいつが主犯らしい。
「謝っちゃうのお? まあ、そうだよねえ。」と、いちいち語尾を伸ばしながら──
「他人を痴漢呼ばわりしたんだからねえ、でも、そのくらいでえ、許してもらえるかなあ」
「そうだ、そうだ。痴漢冤罪は、現代の大問題だからね」と、今度は太ったメガネの男の声。続いて三白眼が──「ほら、謝るならもっとちゃんと謝れ」と、真琴さんの右の乳房を捻り上げる。
「すみません」と、真琴さんはさらに声を小さくして
「許して下さい。謝ります。本当に謝りますから、もう放してください。お願いします」
「そうだよお。心をこめてえ、謝ればねえ、ぼくたちだってえ」
──と言いながら、薄ハゲが腰をかがめ、うつむいた真琴さんの顔を下から覗き込もうと──というよりも、見上げようとした。
やっぱりバカだ。
そんなことを思いながら、真琴さんは、男の二つの目に右手の親指と中指をぐいとねじこんでやる。嫌な感触がした。他人の目に指をねじこむのはこれが三度目だが、慣れるようなことではない。薄ハゲは、「へあゃっ」と妙な叫び声をあげながらのけぞった。そのまま電車の床にへたりこむ。
「おい、どうした」と、メガネの男がしゃがむ。その後頭部に蹴りを一つくれてやると、真琴さんは左方向へと走り出した。ちょうど電車が駅に止まるところだった。ドアが開く。
「おらっ、待て!」
──と叫んだのは、三白眼か。くるりと振り返ると、右足で蹴りつけてやる。股間を狙ったが、はずれた。しかし、かえってよかったのかもしれない。爪先が男のみぞおちのあたりにめり込む。「ぐう」と言って、男はその場にくにゃくにゃと沈んでいく。
真琴さんは、ドアのところに立って、もう一度車内を見た。三人の痴漢が、こちらをにらんでいた。そろって四十代か──いや、もう五十になっているのかもしれない。
真琴さんは、一人一人を、順に指さした。
「薄ハゲ! 三白眼! メガネ豚! 顔は覚えたからな。いい年齢して、集団で痴漢かよ。死ね!」
三人も口々に
「こっちこそ顔は覚えたぞ」「この暴力女があっ」「人権侵害だ」
「痴漢に人権があるか、バカがっ」
死ね──と、もう一度叫んで、そのまま改札まで走り、駅を出た。だが、アパートまでは遠い。二つも手前の駅で降りてしまったのだ。時計を見ると、十一時をすぎていた。バスもなさそうだ。仕方なく、真琴さんは歩くことにした。ついこのあいだまであんなに暑かったのに、十月になって、風が急に冷たくなったようだ。その風に冷やされたせいで、真琴さんは自分が思っていた以上に汗ばんでいたことを知った。
3
「と、そういうわけで……」
真琴さんは、涼子に言った。
「今夜のSMは中止にします」
翌日の午後八時。真琴さんのアパートに遊びにきた涼子に、痴漢被害についてざっとあらましを話してやったところ。
秋月涼子は、真琴さんのSM遊びのパートナーで、聖風学園文化大学の二年生。三月生まれなので、まだ十九歳──サークルも同じミステリー研究会(ミス研)に所属している。このあたりでは大金持ちとして有名な秋月家のご令嬢で、小柄で色白、二つの目がぱっちりと大きな、たいへんな美少女である。
その美少女が真琴さんを「お姉さま、お姉さま」と慕い、いつもトコトコと後をついて回る──それだけでなく、ベッドの上でのお戯れの相手も務めてくれるというのだから、真琴さんから見れば可愛いことこの上ない。まさに掌中の珠といったところか。
「お姉さまがご無事で、本当によかったですわ。それにしても、どうして涼子を呼んでくださらなかったんです? そうしたら、すぐにでもタクシーでお迎えにあがりましたのに」
「でも、涼子は十二時に家からかかってくる電話に、出なきゃいけないんだろ? あの時間から迎えに来てもらったら、十二時までには戻れそうになかったし」
「非常事態のときは別です。これからは、そんなこと気になさらずに、涼子をすぐに呼びつけてくださいね」
涼子は、床にお行儀よくひざまずいて、上目遣いにこちらを見上げている。ドMを自称する涼子は、真琴さんの許しがない以上、決してベッドの上に勝手に這い上がってきたりはしないのである。
「あの……お姉さま? 涼子、まだいくつかわからないことがあるんです。お聞きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「そもそも、お姉さまはそんな時間に、どうして電車なんかに乗っていたんですの?」
「塾の講師のバイトの帰りだったんだ。期間限定の。加賀美先輩の紹介で……」
「まあ、蘭子先輩の? それで……どうしてそのことを、涼子は今まで知らなかったんでしょう?」
「愛しの奴隷さまは、ご立腹みたいね」
最近、真琴さんはときどき、涼子のことを「奴隷さま」と呼んでからかうことがある。真琴さんのM奴隷を自任する涼子だが、実際に意見がぶつかったときには、たいてい涼子のほうが我を通してしまうからだ。
「ごめんなさい、お姉さま。でも、涼子に教えてくださっても、罰は当たらないと思います」
「べつに涼子を仲間はずれにしたとか……そういうわけじゃないよ。ただ急な話だったから、話す機会がなかっただけ。ほかに質問は?」
「ありますわ。どうして警察には届けないんです?」
「面倒だから。それに警察はたぶん、あの痴漢連中をつかまえてはくれないだろうしね。なんか、現行犯でもなければ、なかなか動けないらしいよ」
──とは、真琴さんの体験から出た言葉。高校時代、友人が交番に痴漢被害を届けようとしたときに、一緒についていったことがあるのだが、対応した警官がどうにも反応が鈍く、そのうちに当の友人が「もういいです!」とキレてしまい、被害届を取り下げてしまったのだ。
「それなら、涼子、いい弁護士さんをご紹介します。弁護士さんといっしょに行くと、警察の態度は全然ちがうって、聞いたことがありますわ。涼子の家とお付き合いのある弁護士さんが、何人もいらっしゃいますから、その中から……」
たしかに、大金持ちで会社をいくつも経営しているという秋月家なら、弁護士にも知り合いは多いだろう。
「でもね、涼子。もし警察が動いてくれて、痴漢がつかまったとしてね……わたしは少し心配なことがあるんだ」
「心配って?」
「あの痴漢三人組にも、家族がいるだろう? 可愛い子どもがいたりしたら、どうする? 学校で、お前は痴漢の子だろうなんていじめられたら? なんだか、そんなことまで考えちゃって……」
「お姉さま、やさしすぎます」
「そうじゃないんだよ。わたしだって、あんな連中は死ねばいいと思ってる。ちっともやさしくないよ? でも、家族は別人だし……」
真琴さんは、涼子の大きな二つの目をじっと見つめて続けた。
「なんだか想像力が暴走しちゃって。今日は変なことばかり考えてしまうんだ。それにさ……こっちにも負い目があるしね。目つぶし食らわしちゃったし」
「正当防衛ですわ。そうそう、そのことも、うかがいたかったんです。さっき、目つぶしをやったのは三回目だって、そうおっしゃってましたけど、本当ですか」
「うん」と、真琴さんはうなずいて──
「一回目は中学二年のとき。一つ上に嫌な女の先輩がいてね、わたしのことを生意気だとかなんとか言って、仲間を集めて取り囲んできたから。やっぱり、ほら……わたしのような美人は憎まれやすいしさ。だから、わたしとしては、危険を避けるために、ね?」
「二回目は?」
「そのときは、もっと正当性があるぞ。レイプされそうになったんだから。高三のときだけどさ」
「レイプ……」と、目を見張る涼子に、真琴さんは少しあわてて
「まあ、そこまで大げさなことではなかったかも。相手の子は、一つ下だったんだけど、女は押し倒せばいいなんて、先輩たちに焚きつけられたみたい。それを真に受けて、ぐいぐいきたから、チョンと目を突いちゃった」
「それで、その後、無事でしたの?」
「うん。うずくまっているところを蹴り倒してから、逃げてきたよ。次の日会ったら、ごめんって向こうから謝ってきたから、許してあげた」
「人に歴史あり、ですわねえ。お姉さま、勇敢ですわ」
「ありがとう」と、真琴さんは少しほっとして言った。
「実は、こんな話をすると、涼子に嫌われるんじゃないかと思って、少し心配してた」
「まさか。涼子、ますますお姉さまに憧れてしまいます」
漱石の『坊っちゃん』に出てくる清ではないが、涼子は真琴さんがなにを言っても、なにをやっても、一応は誉めてくれる。ただし、真琴さんの言動が自分の考えと異なる場合は、誉めたあとにじりじりと変更なり修正なりを迫ってくるのだが、今回はどうやらそれもないらしい。