連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:寺尾紗穂(シンガーソングライター、文筆家)

日本統治下の南洋群島を取材してきた寺尾紗穂さんが語る戦争の間に揺れた人と人の交わりの歴史。そこには、国際関係や人間関係に緊張を強いられる現代を生きるヒントがありました。

 


第十九回
南洋と日本と戦争の間で
ゲスト  寺尾紗穂
(シンガーソングライター、文筆家)


Photograph:Hisaaki Mihara

連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第19回メイン連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第19回HTML

寺尾紗穂(左)、中島京子(右)

南洋に興味を持ったきっかけは中島敦

中島 寺尾さんが南洋の島を取材された『あのころのパラオをさがして』(集英社・刊)と『南洋と私』(リトルモア・刊)を拝読しました。
寺尾 ありがとうございます。
中島 寺尾さんが関心を持たれたのは、ロマンチックな南の島ではなくて、日本統治下の南洋。私も初めて触れる南洋の方々と日本の関係に、驚き、感動し、そして心を痛めながら読みました。なぜ、その時代の南洋をテーマにしようと思われたのですか。
寺尾 大学時代、屋久島の旅に出かけた時に「ちくま日本文学」の『中島敦』の巻をたまたま古本屋で買って持っていきました。そのなかに、パラオがモチーフになっている話があったんです。
中島 「マリヤン」ですか?
寺尾 そうです。中島敦の作品は高校の教科書に「山月記」と「李陵」が必ず出てくるので、何編かは読んだことはあったのですが、南洋の話を書いていることは知りませんでした。たまたま屋久島の青い海を見ながらその話を読んでいたら、気持ちが南洋に飛んでしまって(笑)。距離的に近かったので、翌年、まずサイパンへ行きました。
中島 その時のサイパンをはじめ沖縄や八丈島の戦争の傷跡を取材されたものをまとめられたのが『南洋と私』ですね。でも、最初の取材は、まだ大学生の頃ですよね。
寺尾 はい。学生時代のサイパンを端緒に、十年ほどかけて少しずつ各地を取材してまわりました。本にまとめてから、あの時代の南洋を知るためには、やっぱりパラオへ行かないと、という思いが強くなってきて、二〇一六年の一月にはじめてパラオへと向かいました。
中島 寺尾さんが南洋に関心を持たれるきっかけとなった中島敦は、太平洋戦争直前まで南洋庁の役人としてパラオに赴任していたんですよね。
寺尾 はい。かつて南洋群島と呼ばれていたミクロネシアの島々はドイツが植民地支配していました。しかし第一次世界大戦でドイツが敗戦したことで、日本が委任統治することになったんです。日本はパラオに南洋庁を置いて、「南洋群島」の統治を始めます。そこでは日本語教育が行われていました。いまも日本語を話せる人がいるのは、その名残です。中島敦は、パラオの島民用の国語の教科書を作る役人として赴任していました。そんなこと、学校の授業では、まったくやらないでしょう。
中島 たしかに。触れませんね。
寺尾 私もまったく知識がなくて。でも、南洋の島でその時代を体験した人たちが、まだ生きていると思うと、どうしても話を聞きたくなって、半分観光気分で行ったのが、最初のサイパンです。
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第19回文中画像1中島 いやいや、とても観光気分とは思えないほどの取材力に驚きました。現地の情報を予め下調べしたり、案内役の人を探したりと、準備が大変だったでしょう。
寺尾 私の場合は、いきなり押しかけていくスタイルなんです。老人ホームに行けば、まだ日本語を話すことができる人がいるんじゃないかと考え、現地の人をつかまえて「老人ホームはありますか」と聞くことから始めました。
中島 すごい。その行動力、私も見習いたい。
寺尾 最初にサイパンを訪れたのは十五年以上前だったので、まだ日本語を覚えている方が十人以上いました。当時のこともしっかり覚えていました。でも、一昨年のパラオでは、日本語を話せる人はもうかなり少なくなっていました。早くしないと、もう二度とあの時代の話が聞けなくなっちゃうと思って、その年の五月末から六月頭にかけて再訪したんです。

いまなお、良き日本の記憶が残る島

中島 南洋の人々が、総じて親日的だと言われることに違和感をお持ちになったことが、取材の入り口であったと書かれていましたが、実際に取材されてみてどうでしたか。
寺尾 特にパラオの人々の間には、日本統治時代は良かったという郷愁のようなものを感じました。私がお話を伺ったニーナさんも八十歳をこえたご高齢でしたが「日本大好き」とおっしゃっていました。でも、軍国時代の日本に支配されていたのだから、それだけではないだろうと。
中島 台湾も「親日的」と言われますね。ただ、日本統治時代にもひどい目にあったけれど、日本が撤退後、大陸から来た国民党の弾圧の記憶が生々しいので、比較して日本統治時代は良かったという印象が残っているとも言われています。
寺尾 パラオも同じかもしれませんね。日本の教育を受けて日本式に育てられた人々にとって、後からやってきたアメリカの統治が雑すぎたのだという話は聞きました。
中島 アメリカは、雑すぎる。なんとなくわからないでもないような。おおざっぱなのかな。
寺尾 日本統治時代に作られたパラオ病院はすごくきれいで快適な病院だった。でもアメリカの時代になると、適当になると。
中島 それは困りますね。
寺尾 サイパンで話を聞いたおじいちゃんも、日本の時代はどんなに安い物を買うときでも「何になさいますか」と、子どもにも丁寧な対応をしてくれた。でも、アメリカになったら……。そういう意味で日本に対して好意をもっている感じはしました。
中島 いまや日本でも、そういう優しさや、丁寧さは、失われつつあるでしょう。でもそんな時代に、良き日本の記憶が、いまなお遠い南の島に残っている。ちょっとうれしくなりますね。
寺尾 ほんとうに、そうだと思います。
中島 でも、「日本人大好き」だと言っていたニーナさんも、日本軍や日本人がやった残酷なことや悪いことももちろん知っている。日本人である寺尾さんに遠慮して、言わないでくれている部分もある。そういう複雑な気持ちまで丁寧に書かれています。
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第19回文中画像2
寺尾 もちろん、親日の島という美談にすることもできたと思います。でも、人の心って、スパッと割り切れるものでもないですし、自分でどう整理したらいいのかわからない経験もたくさんあるでしょう。特にニーナさんの場合、お母さんを助けてくれた日本人軍医に対する恋心が絡んでいるから、余計に複雑な心境だったのでは、と思います。
中島 戦争という狂気の下でも、そこで出会うのは生身の人間同士ですからね。
寺尾 当時の南洋群島では、大日本帝国による皇民化教育が行われていたので、かなり極端な思想教育もあったとは思いますが、同時に日本的な倫理感や道徳も教えています。
中島 遅刻はしないとか、人に迷惑をかけない、親を大切にするなど、厳しくしつけられたことを、「よかった」と感じているお年寄りが多いことが興味深かったです。
寺尾 当時の日本による教育を後々になって感謝している人たちには、そういうアメリカ的感覚にはない、きちんとした几帳面な意識に懐しさを感じて「日本が恋しい」「あの時代が恋しい」という郷愁があるのでしょう。それが下の世代にも伝わって親日的な雰囲気を醸し出しているのかもしれません。
中島 なるほど、若者たちにとっては「おばあちゃんの好きな日本」なんですね。そういえば、ドイツや日本の統治時代の歴史を展示しているパラオ国立博物館(Belau National Museum)で、日本に関するある展示にだけ和訳がついていなかったでしょう。それが二度めのパラオ行きを動機付けたと書いてありましたね。
寺尾 他の展示はすべて、日本語の訳文がついているのに、なぜかそこだけついていない。開館当初、博物館には日本人スタッフの方もいて、その方が神戸学院大学准教授の三田牧さんに頼んですべての展示に日本語訳をつけてもらったそうです。
中島 なぜ、なくなったのでしょう?
寺尾 現在の館長が、何かのきっかけでその部分だけ日本語訳を取ったという話も聞きましたが真相はわかりません。
中島 館長はパラオの方ですか?
寺尾 そうです。想像するに、日本人の観光団からか、パラオの人からかはわかりませんが、その展示に関して何らかのクレームがあったのかもしれません。
中島 観光で来る日本人には、この展示の解説は見せないほうがいいと。いわゆる忖度でしょうか。
寺尾 たぶん、あまり深く考えずに、ややこしいものなら取ってしまえ、ということだったんですかね。
中島 難しいですよね。寺尾さんがお書きになった二冊の南洋の本を読んで、私はノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を思い出しました。埋もれた記憶と、掘り出される記憶の話です。何を忘れて、何を覚えておくか。じつは、そのさじ加減がすごく難しい。博物館でも、最初は日本に都合の悪い歴史もちゃんと伝えようと展示した。でもやはり忖度というか、優しい気持ちが邪魔をする。現地の方のそうした揺れる感情も含めて、観光で訪れた日本人が事実を知って受け止め、パラオをさらに好きになるというのが、あるべき姿かなと思います。
寺尾 確かにそうかもしれませんね。ニーナさんにお話を聞いていた時に、ここは録音しないでくださいと、いってオフレコの話をしてくれました。
中島 ニーナさんとの約束を守って、本の中にはニーナさんの言葉としてはお書きにならなかった。
寺尾 はい。日本軍が計画していた虐殺未遂の計画と終戦のときに村長がみんなを集めて、あることを通達したらしいんです。だからニーナさんも録音しないでくれと言ったと思うんです。でもこの事実は、日本人が知っていてもいいことです。
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第19回文画像3中島 忘れてくれることがある。あるいは忘れないけれど許してくれることがある。しかし、私たち日本人は加害の過去を知っていなければいけないですね。
寺尾 パラオの国旗は、青地に黄色い丸で日の丸に似ています。ウィキペディアでパラオのことを調べると、一説として日本の日の丸をまねたものだ。お日さま(日の丸)より、一歩下がったお月さまのように、日本を慕う気持ちが表れている国旗であると書かれていたことがありました。今は削除されたようですが。
中島 本当なのかな。
寺尾 その説を流したのは、戦地に行って日本の戦没者の慰霊を積極的に行ってきた右翼系の思想を持った人らしいのです。パラオの国旗をデザインした人に聞いたら、まったく違う。
中島 日本人によって、そういう誤った説が流布されるのは、ほんとうに恥ずかしい。

見えなくなったものや、
忘れられたものを大切にしたい

寺尾 私の世代だと祖父も戦争には行っていません。戦争体験者から直接話を聞く機会もこれから少なくなっていく。もう二度と繰り返してはいけない戦争の悲惨さを伝え残すことはもちろんですが、そこにあった人と人の交流を掘り起こすことで、現代の若い人たちにも、自分たちとはまったく違う過去の話ではないんだと、少しでも実感を持って想像してもらいたいなという気持ちがあります。
中島 私が子どもの頃は、大人はみんな戦争を実体験として知っていました。でも、いざ自分が大人になってみると、自分の周りは誰も戦争を知らないことに気がついた。まず自分が知らなきゃいけないし、それをどう同世代や下の世代と共有するか。私にとっても大きなテーマなんです。寺尾さんの本はノンフィクションなのですが、アプローチの仕方はすごく文学的な感じがしたんですね。若い人たちの気持ちの中にも、すっと入っていきやすい。
寺尾 多分、厳密なノンフィクション作家の方だと、取材をして話をきいても、それが本当に事実かどうかちゃんと裏付けをとったり、資料と照らしあわせたりしていると思います。そういう意味では中島さんのおっしゃるように、私のアプローチの仕方は文学寄りですね。その方の見た景色や心情を伝えることに力点を置いています。
中島 それはもちろんシンガーソングライターでもある寺尾さんの言葉の感性からくるものでもあるでしょうけれど、お父さま(シュガー・ベイブというバンドで山下達郎氏などとともに活動していたベーシストの寺尾次郎氏)の影響もあるのでしょうか?
寺尾 私が物心ついた頃には、音楽からフランス映画の字幕を制作する仕事に移っていたので、父がベースを弾いている姿を見たことがないんです。記憶に残っているのは父が翻訳で使うタイプライターを打たせてもらっているところ。私が小学校ぐらいから父とは別居していたので、あまり父親の影響は受けていないようにも思うんです。
中島 そうだったんですか。パラオに残っている日本語の歌を採取されているところなどは、やはり寺尾さんの音楽家の部分を感じました。
連載対談 中島京子の「扉をあけたら」第19回文中画像4寺尾 日本統治下のパラオで広まった日本語歌謡、デレベエシールですね。基本は日本語の歌なのですが、途中パラオ語が混じってくる。私が行ったときには、若い人も歌っていました。ラジオからも流れていましたし、DJ風の若者が『長崎は今日も雨だった』をかけていたこともありました。
中島 パラオの若者たちがおしゃれな感覚で捉えていると思うとおもしろいです。それにしてもニーナさんは、よく歌を覚えていましたね。
寺尾 しかも、歌詞を記録していてそれが残っていた。メモ帳にじょうずなカタカナで書いていました。あ、そうだ。最近、パラオには行ったことがないけれど、デレベエシールを何曲も知っていますという方から連絡をもらったんです。
中島 日本の方ですか?
寺尾 戦後、筑波大学附属中学の水泳合宿に、OBが指導に訪れた。たまたまその人がパラオからの帰国者で、パラオ水泳協会副会長も務めた南洋庁の元役人だったんです。それで後輩たちにパラオの歌を教えてくれた。その時覚えたパラオの歌は今でも歌えると。しかも手紙をくださった方は私と同じ杉並区内に住んでいて、「今でも歌えるメンバーを集めるから聞きにいらっしゃい」と誘ってくれたので、聞きに行ってきたんです。
中島 すこし変な日本語が混じっているデレベエシールを日本で聞くことができるんだ。すごい。
寺尾 「恋しい」が「こゆしい」になっていたりするんですよ。日本人なのにそういう変な言葉をそのまま教えて、それが今も残っているのが面白いです。踊りまでつけて見せてくれました。
中島 そういう、文化が交わっていくものには何か魅力を感じますよね。
寺尾 交わっていき、人が移動することによって、いろんな場所に広がっていく。
中島 パラオでは、これからもずっとデレベエシールが歌い継がれていくのでしょうか。ぜひ、そうあってほしいという願望はありますね。寺尾さんの『たよりないもののために』という歌に、「見えなくなったものたちのダンスは続いてる」、「忘れられたものたちのダンスは続いてる」っていう歌詞があるでしょう。私たちひとりひとりが、そういう見えなくなったものや、忘れられたものを大切に思い続けられる人間であり続けたいですね。

構成・片原泰志

プロフィール

中島京子(なかじま・きょうこ)

1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立。1996年にインターンシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で中央公論文芸賞、2016年、日本医療小説大賞を受賞。最新刊は『ゴースト』。

寺尾紗穂(てらお・さほ)

1981年東京都生まれ。シンガーソングライター、文筆家。大学時代に結成したバンドThousands Birdies’ Legsでボーカル、作詞作曲を務める傍ら、弾き語りの活動を始める。2007年にピアノ弾き語りによるメジャーデビューアルバム『御身』を発表。映画『転校生 さよならあなた』『0.5ミリ』では主題歌を担当。ノンフィクション作家として著書に『評伝 川島芳子』『原発労働者』『あのころのパラオをさがして 日本統治下の南洋を生きた人々』などがある。CM、エッセイの分野でも活躍中。

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初出:P+D MAGAZINE(2018/01/20)

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