ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第二回 ルーツは相撲取り

 

戦前は瀬戸物業

「山谷」という地名は現在、地図上に存在しない。昭和41年に町名変更されたためで、遊廓として知られる隣の「吉原」も同じである。「山谷」と呼ばれた地域は、現在の台東区清川、()(ほん)(づつみ)、東浅草に該当し、当時の町名は浅草山谷1〜4丁目だった。地図からは消えてしまった地名であるが、地元の人々には今も語り継がれ、その名残をとどめている。
 山谷を舞台にした書籍は、今までに数多く出版されている。ところが帰山仁之助に言及している箇所は、意外にも少ない。たとえば次のようなくだりだ。

<ドヤ組合長帰山仁之助が会長だが、一畳に二人を住まわせてさんざん労働者からしぼりあげながらなんの福祉だ、なんの奉仕だ。盗っ人たけだけしいとはこのことである。それでも罪ほろぼしというのなら可愛げもあるが、「親兄弟に見捨てられた連中を政府に代わってみてやってるんだから、勲章ぐらいもらうのは当然だ」とぬかすのだ。>(『山谷戦後史を生きて』・上、梶大介著、績文堂出版1977年刊)

<もちろん、現在の法体系の中で帰山の商売は、一点のやましいところのない、正当なものだ。だが、労働力をしぼり取られボロクズのようになっていく無数の人たちと、その人たちのゼニで商売して億の財産を成した帰山との間の、天と地ほどの落差。その存在もまた事実である。>(『新・山谷ブルース』、小島一夫著、批評社1983年刊)

 冒頭で紹介したイメージを反映するかのように、いずれも仁之助に対して否定的な見方だ。なぜなら両書は日雇い労働者の視点に立っているからである。そもそも山谷に関する書籍は、日雇い労働者や生活保護受給者など、社会的立場の弱い人々に焦点を当てた内容が主流だ。だからどうしても、経営者である宿主に対しては敵対意識が芽生えるのかもしれない。
 私が山谷の取材に着手した昨年秋、哲男さんに初めて連絡を取った時にも、まずはこの話から始まった。
「父親のことを書いている本の中には、間違っている記述もかなりあります。会って話も聞いていないのに悪口を書いている。もし取材をするのであれば、正確に書いて欲しいんです」
 いくつか書籍を確認したが、基本的な事実関係すら間違っている箇所も見られた。もっともそれらは、一昔も前の本であるから、校閲環境が今より充実していなかった可能性もあるだろう。
 その後、本格的に取材を進めるようになっても、哲男さんはことあるごとに、父親についての記述の誤りを口にするのだった。だから私としても慎重に取材を進めなければならない。実の息子に当たる哲男さんだけでなく、今も残る当時の生き証人を探し出し、あるいは昔の資料を掘り起こし、地道な作業を重ねてできるだけ帰山仁之助の実像に迫りたいと思った。
 帰山仁之助は、一体どのような経緯で山谷の復興に携わり、そして山谷は現在の姿へとどう成り変わっていったのか。
 仁之助は大正元(1912)年10月5日、父、()(きち)の長男として浅草町(現・日本堤)で生まれた。弟4人、妹2人の7人きょうだいである。台東区清川に現在もある石浜小学校、そして東京商工学校(現・埼玉工業大学)を卒業後、大阪へしばらく奉公に出される。山谷に戻って以降は、父が営む瀬戸物屋を継いだ。今の簡易宿泊所「エコノミーホテルほていや」が建つ場所で、戦前にしては大きな店構えだったという。間もなく第二次世界大戦が勃発し、政府は戦争下の生活にふさわしくない民需品の生産を次々と制限。昭和17(1942)年5月には国家総動員法に基づき、企業整備令を公布し、商業・民需部門の中小企業を中心に整理を進めた。この影響で仁之助も瀬戸物屋を廃業せざるを得なくなり、軍需縫製工場に転換した。仁之助は当時、30歳だったが、出征は免れた。

 

ヤマ王とドヤ王第2回文中画像2

旧都電通り前に建つ瀬戸物屋と若かりし頃の帰山仁之助

 

 哲男さんはその頃、まだ生まれていなかった。一番近くで仁之助の姿を見ていたのは、姉で長女のすみ子さん(82)である。そこで私は、取材の趣旨を説明する手紙を送った。返事を頂いて電話を掛けてみると、最初は口が重い様子だったが、やがてはっきりした口調で語り出した。
「私が聞いているのは、父(仁之助)が小さい頃、そば屋に遊びに行った先で、機械か何かに指を挟んで右手の人差し指が無くなったんです。それで入隊時の検査で銃を撃てないからってことで、出征を免除され、家に帰ってきたんです。軍需縫製工場には電動ミシンがたくさん並び、結構な人数の女工さんたちが働いていました。そこではパラシュートを作っていました」

 

ヤマ王とドヤ王第2回文中画像3

この軍需縫製工場でパラシュートが作られていたという。

 

 戦火は激しさを増し、すみ子さんは母親の実家がある仙台に預けられた。終戦の年に起きた東京大空襲では、山谷も一面が焼け野原になった。
「空襲が起きる最後の最後まで、軍需工場は稼働していたようです。それで散り散りばらばらに逃げて、どういうつてがあったのかは分かりませんが、父は五日市町(現・あきる野市)のほうへ疎開しました」
 疎開先の檜原(ひのはら)村は山間だった。戦後、山谷に戻った仁之助は、村人たちの勧め通りに製材所を始めた。前述のテープを聴いてみると、仁之助はその時の状況についてこう説明している。
「終戦の年は私が33ぐらいでした。私が疎開していた土地が山の中だったもんですから、『どうだ、東京のほうで材木を売ったらどうか』ということで、材木をやったわけなんですね。そういうことをやっておりまするうちに、この山谷の、いわゆる旅館の復興の話が出てきたわけなんです」
 その中心人物が、仁之助だった。

 

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