ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十五回 「あしたのジョー」で町おこし 吉原と山谷に挟まれた「いろは会商店街」の今

 

若者集う「山谷酒場」で新たな風

 スカイツリーの登場を機に盛り上がった町おこし。商店街の活性化には一時的につながったが、その衰退をくい止めるまでには至らなかった。
「ジョーを見に来てくれるお客さんが、帰りにいろは会通りで買い物をしてくれればと思って一生懸命やったんですが、それでも商店街自体がダメだから賑やかにならないですよね。今やっているお店は年寄りばかりで、新しい店が出て来ない。儲からないから、と後継者も現れないので店は減っていく一方です」
 やはりそう青息吐息を漏らすのは理事長の青木さんだ。
 店仕舞いをした商店はシャッターが下りているが、中に人は住んでいるのだという。営業していた当時は、1階が店で、2階が住まいだったが、閉店後は、1階が住まいに変わった。だから貸店舗として利用されることがない。しかも住んでいるのは高齢者で、子供たちは別居しているため、「貸す」となると色々と面倒なのだ。堀田さんも、こう語る。
「何軒か新しい店が出てこないと、遠くにいる子供たちも貸そうという気にはならないでしょう。皆さんが貸さないとなれば、商店街はこのまま消滅していくのかなと思います」
 だが、寂しい話ばかりでもない。
 堀田さんのパン店「ぶれ〜て」は2017年、堀田さんの体調の都合で閉店したが、そこにできた居酒屋が今、新たな風を吹き込んでいる。

 その名は「山谷酒場」。
 18年9月にオープンして以降、すぐに巷で話題となり、連日、賑わっている。驚くのは、来店者の多くが20〜30代の若い女性という客層だ。経営者の酒井秀之さん(44)が語る。
「お客さんの8割以上が女性です。ツイッターやインスタなどSNSを使った宣伝が大きいとは思いますが、なぜ女性が多いのかと言われても、分からないですね。とにかく若い女性がほとんどです」
 私が訪れた日も、若い女性客の姿が目立った。
 山谷酒場が管理するツイッターアカウントのフォロワー数は10月末現在、約7400と、個人経営の飲食店にしては多い。
「特にコロナ前は毎日のように1品料理を考案し、それを写真とともにツイートしていました。中東やヨーロッパ、コアな中華料理などですね。それがきっかけでフォロワー数が増えました。コロナ禍では手作りクッキーの販売を始め、それもツイートするとお客さんが遠くは北海道や名古屋から来てくれました。SNS効果ってこういうことなんだなと思いました」
 山谷酒場の場所はいろは会通りの西端で、吉原大門がある土手通りに近い。あしたのジョーの像は目と鼻の先で、この一角は青木さんのやきとり屋「平乃屋」、青果店、酒店、精肉店などが軒を連ね、いろは会通りの中でも最も人通りが多い。山谷の中心部からはやや離れているため、酔っ払いや路上生活者が少ないという環境も手伝っているのだろう。このためシャッター通りへの出店に際して、特に不安はなかったという。


「コロナ禍でも決してネガティブなことはつぶやきませんでした」という山谷酒場の店主、酒井さん
 

 酒井さんは数年前、西調布で喫茶店を経営していた。そのうちに大衆酒場をやってみたいという思いが募り、趣味の町歩きで東東京が好きだったこと、知人を介して堀田さんと知り合ったことなどから、夫婦でいろは会商店街に出店するに至った。資金の一部はクラウドファンディングで調達した。
 山谷酒場の看板メニューは「山谷酒」だ。焼酎をベースに10種類の生薬をブレンドした酒で、養命酒の「山谷版」といったような感じだ。飲みやすく、すっと喉を通る。
「山谷由来のものを提供できれば良いかなと色々調べた結果、日雇い労働者の街だったこともあり、体に良い、元気が出るお酒を造ろうと思いました。ロックで飲むと、体が温まってきますよ」


飲むと体が温まる看板メニューの山谷酒
 

 食事のメニューも、冷や奴、ハムカツ、ポテトサラダなど大衆酒場の定番メニューから、インド、中東などのエスニック料理、3850円する特大のプリンアラモード(要予約)も提供している。酒井さんが語る。
「お店を出すために、山谷に引っ越してきました。東東京に住めると思うとわくわくしました。確かにいろは会商店街はシャッター通りではありますが、他にも同じような商店街はたくさんありますし、寂しいという感じはありません。むしろここで良かったと安心しています」
 100年以上の歴史を持ついろは会商店街───。
 そこに生きる人々の声からは、景気の低迷や少子高齢化という時代の荒波にもまれた閉塞感ばかりが広がる一方、地元を愛する下町人情もまた伝わってきた。子供の頃の懐かしい記憶が詰まった街が色褪せてしまうのは、やはり胸が締め付けられる。山谷酒場のようにポジティブ思考の店が後に続けば、いろは会商店街の景色はまた、違った見え方をするのだろう。
 いい気分になったところで山谷酒場を後にした私は、雨が降る中、いろは会通りを歩いた。途中、路上生活者の吉田さんが、シャッターの前で毛布にくるまっていたので声を掛けた。まだ眠っていなかったのか、すぐに私に気づいて体を起こした。吉田さんは「日本酒が飲みたい」というので、私は近くのスーパーでカップ酒を買い、段ボールの上に2人並んであぐらを搔いた。
「これ修道院でもらったんだよ」 
 吉田さんはそう言い、座っている黄色いカーペットを指した。
「ここで寝ていても、住人たちは親切な人だから言わない。普通だったら、こんな人の家の玄関先に寝ていたら何か言うよね。でも言わない」
 対面の建物のシャッターを叩く雨音が響いていた。
 しばらく吉田さんと会話を続けていると、若い男女がやって来た。吉田さんが、
「こんばんは」
 と声を掛けて頭を下げたが、2人は特に反応をせず、シャッター横のドアを開け、中へ入っていった。
「ここの人は何にも言わないんですよ」
 と、吉田さんは場所を使えることに感謝している様子だった。
 ところが、5日後に同じ場所を訪れてみると、シャッターの前には立ち入り禁止を示す三角コーンが2本立っていた。貼り紙には、

【警告】この建物の住人のかた以外の敷地内への立ち入り等はご遠慮下さい。管理会社より

 と記されている。そこに吉田さんの姿はなく、段ボールはシャッターに立て掛けられたままだった。
 一体どこに行ってしまったのだろうか。

 路上で暮らす男たちの、もう一つの現実を見たような気がした。

 

プロフィール

ヤマ王とドヤ王 水谷竹秀プロフィール画像

水谷竹秀(みずたに・たけひで)

ノンフィクションライター。1975年三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。他の著書に『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)、『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社)。

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初出:P+D MAGAZINE(2021/11/15)

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