飯嶋和一

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編
   宝暦八年七月二十日、老中酒井忠寿は、阿部正右ら五人の僉議掛に「金森領分の駕籠訴一件を吟味し直せ」と命じ、八月には石徹白の件もあわせて審理するよう通達した。  宝暦八年十月二日、僉議掛に
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 前編
       四十三    天明六年(一七八六)閏(うるう)十月五日、老中牧野貞長(まきのさだなが)の屋敷に、大老の井伊直幸(いいなおひで)、そして松平康福(まつだいらやすよし)以
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 後編
       四十    天明六年九月十日、普請役(ふしんやく)の皆川沖右衛門(おきえもん)は、東蝦夷地アッケシ(厚岸)に一人残って本年最後の交易業務の指図と残務整理にあたっていた
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 前編
       三十八  天明六年(一七八六)、八月半ばを過ぎると江戸市中はその話題一色に染められた。 「公方(くぼう=将軍)さまが病に倒れ、しかもかなりの重体で再起は望めない。諸悪の根源た
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 後編
 徳内が情味深く我欲の少ない好漢であることは新三郎にもわかった。先住民アイヌに対しても、徳内は、内地商人による一方的な労役の押しつけや卑劣な搾取を憤り、先住民に和語と読み書き算盤を教えることによって知
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編
       三十五    天明六年(一七八六)は、江戸に夏が来なかった。四月の半ばより六月にかけてずっと雨にたたられ、時ならぬ肌寒さに五月になっても綿入れが手放せない日々となった
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 後編
   エトロフに渡って以来、イジュヨたちは穀類不足に悩まされ、徳内が連日ふるまう米飯をとても喜んで口にした。イジュヨがかなり交易の経験を積んでいるのは、徳内が携えてきた生薬を知っていたことで
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 前編
       三十一  天明六年(一七八六)四月十八日、本年度カラフト探索の先発を命じられた大石逸平(いっぺい)は、西蝦夷地(にしえぞち)ソウヤ(宗谷)の運上(うんじょう)小屋に到着した。
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編
   徳内は、出羽国村山郡楯岡(たておか)の小百姓甚兵衛の長男として宝暦五年(一七五五)に生まれ、この年三十二歳を数えた。故里の楯岡は、福島の北に位置する桑折(こおり)から青森まで出羽国を南
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 前編
       二十八  天明六年(一七八六)正月二十二日昼、湯島天神門前から出た火は、日付の替わる寅刻(午前四時)直前まで鎮まらず、日本橋より深川までの一帯を焼く大火となった。  翌二十三
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 後編
   これまで幕府が探索方の普請役を蝦夷地に送り直接北方事情を調査したことはなく、蝦夷地に関しては松前藩任せだった。佐藤玄六郎ら普請役の報告書は、蝦夷地に迫る異国勢力が二系統あって、東蝦夷地
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編
       二十四  天明五年(一七八五)十二月一日、松平越中守定信(さだのぶ)が溜間詰(たまりのまづめ)を命じられた。溜間は城中三番目の大名詰め所で、ここに詰める大名は、老中と政務を議
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 ◎編集者コラム◎  のっけから脱線します。 「飯嶋和一にハズレなし」と書評家や一部の書店員の方々には言われています。しかしその飯嶋さん、出版社が主催するメジャーな賞を、いつも候補の段階で辞退して
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 後編
   十月八日、佐藤玄六郎の乗る板つづり舟は、荒れるオホーツク海の高波を何とか乗り越えアツケシへ到着した。  アツケシの運上小屋には、普請方下役の大石逸平(いっぺい)だけが残っていた。普請役
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編
       二十一    江戸は七月に入ってからも雨がちの肌寒い日が続き、この天明五年(一七八五)の秋も豊かなみのりはおよそ期待できそうになかった。逆に西日本では六月に雨降らず、
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回後編バナー画像
 幕府は、国益を標榜して何よりも幕府の利益を優先し、大名から領地を取り上げ幕府領とする「上知(あげち)」をたびたび行おうとした。  宝暦十四年(一七六四)五月、幕府は、輸出用の銅と銀貨鋳造のため、秋田
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回前編_バナー画像
       十八    天明五年(一七八五)六月十七日、丸屋勝三郎(まるやかつさぶろう)が再び新作の銅版画と墨絵の習作を携え、芝(しば)宇田川町(うだがわちょう)の加瀬屋伝次郎(
◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回バナー画像
   秋田藩主の佐竹義敦(よしあつ)が六月一日に江戸下谷三味線堀の上屋敷で病没した。まだ数え三十八歳の若さだった。  佐竹の殿様といえば、江戸の文人の間では、右京大夫(うきょうだゆう)の官名