【連載第3回】リッダ! 1972 髙山文彦
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韓国併合(一九一〇年)以降、東九条に住み着く朝鮮人は、大正時代の初めごろから増えはじめたという。併合直後、すでに着手されていた宇治川発電所の建設工事にかなりの数の朝鮮人が従事したのが、きっかけであるらしい。第一次世界大戦の特需景気にわく日本。京都では友禅染めの工場が朝鮮人の雇用を開始し、つづいて東海道本線東山トンネルの掘削、いくつかの高架橋建設、河川改修など大規模な工事が連続した。そこへ新たに多くの朝鮮人が労働者として流入したのだ。故国で働くよりも、はるかに高い賃金をもらえたからである。彼らは「日本人」の国籍をもち、選挙権も与えられていた。
そうした工事が一段落し、雇用を解かれても彼らは故国へは帰らなかった。京都駅の東側には、東七条(戦後「崇仁」に改称)という全国でも最大級の被差別部落があって、そこに彼らはまぎれ込むようにバラックを建てて住んだ。東七条というこの地域は、東海道線の線路を挟んで北側に大きくエリアをひろげており、南側にも鴨川西岸から高瀬川を跨ぐあたりまで、線路沿いに小さなエリアを有していた。朝鮮人の多くが住み着いたのは後者のほうで、彼らは線路づたいに張りつくようにバラックを建てていった。
いまもそうだけれども、京都駅は北が玄関口である。当時、南側は小さな改札がひとつあるきりで、「駅裏」と呼ばれていた。人家のない、九条ネギの畑とその先に友禅染めの工場が点在するだけの、のんびりとした風景がひろがっており、しかしどこも私有地であったから彼らはそこを避けて、川や線路沿いにバラックを建てたのだ。
並行して流れる鴨川と高瀬川は、北から線路を越えて南にはいってくると急にその間隔を狭め、やがて合流する。このふたつの川に挟まれた土地は低湿地であり、ひとたび台風や大雨に見舞われたら水害の危険にさらされる。だから京都の人は、だれもそこに住もうとしなかった。ところが土地をもたない彼らは、鴨川に架かる鉄道院(のちの国鉄)奈良線の橋架下から南側の土手に住むようになり、西側の高瀬川にいたる低湿地にもつぎつぎとバラックを建てていった。それが屋形町と呼ばれるところである。さらに西側のやや安全な東海道本線づたいに、東之町、西之町、高倉町というふうに被差別部落のなかにバラックを建てていった。
だが戦争末期になって、東海道本線が空襲の標的にされるという理由から、南北のバラックはことごとく打ち壊され、移転を余儀なくされた。こうして線路からいくらか離れた、といっても駅から徒歩五分とかからないいまの東九条に疎開する者もあれば(この一軒がY家である)、どこか遠くへ去った者もいた。こうしてすべてのバラックはきれいになくなり、駅裏には鴨川にかけて広大な空き地が生まれたのである。
敗戦と同時に、どこからともなくあらわれた朝鮮人をふくむ人びとによって、そこに一大闇市が生まれた。彼らのなかには故国へ帰る途中、闇米を売って旅費にあてようとする者もいて、ものすごく高い金額で売れるものだから、そのまま京都にとどまる者も少なからずいた。彼らは空き地になっていた駅裏にふたたびバラックを建て、そこに住みながら闇市で商売をしたが、しかしその賑わいはほんの一年で終わった。闇市禁止令が出たからである。その後、朝鮮戦争がはじまると、彼らは帰るに帰れなくなった。半島は南北に分断され、それぞれが独立国家となったので、自分の国籍を「北」にするか「南」にするかで悩んだすえに、同じ家族でも北と南に分かれる世帯が生まれた。
いろんな激動の波が庶民の生活を洗いつづけたこの一九五〇年代、いっぽうでは部落解放運動が高揚期を迎え、崇仁には改良住宅の建設計画がすすんだ。しかしながら、市による買収に応じながらも、つぎに住むところが保証されていないからと、バラックの住民はひとりも立ち退きに応じなかった。交渉が難航するなか、市は一九五五年度事業として、西之町の買収済みの土地に改良住宅の建設を開始。翌年度には鉄筋コンクリート三階建ての一八戸と、鉄筋コンクリート三階建ての六戸が建ったのだけれども、とてもこの程度の規模ではバラック対策が解決されるはずもなかった。とくに後者の住宅は、「未買収のバラックを避けながらの建設であったため、崇仁第二住宅は建物全体の用地が確保出来ず当初六戸だけが建設され、用地買収後に一二戸の増設工事がおこなわれた」(前川修「東七条におけるバラック対策と新幹線敷設」『部落解放研究』一四一号)という。
とはいえ、これでも戸数はとうてい足りなかったし、とくに朝鮮人には深刻な問題が生じた。長年ここに住んできたにもかかわらず、いくらかの例外を除いて、ごく少数の入居しか認められなかったのだ。国籍条項が生まれていたからである。もう彼らは「日本人」ではなかった。
こうして向かった先が、鴨川西岸だったのである。むかし住んでいたその屋形町へ、新しい流入者もつぎつぎと住み着くようになった。水害危険地帯としてもっとも憂慮されているところでのスラムの拡大は、避けられなくなった。
一九五七年におこなわれた京都市住宅対策本部の同地域への調査(『国鉄沿線南部バラック集落の実態調査報告』)によると、屋形町から京都駅裏にかけてのバラック集落には五四三世帯が暮らし、屋形町にはその半数以上の二八四世帯、九三一人が暮らしている。五四三世帯のうち調査可能であった五一〇世帯のなかで、朝鮮人世帯は七一世帯であった。また、一九六〇年の調査(「国鉄沿線南部バラック地区清掃事業一件」『京都市民生局所蔵資料』)では、屋形町のバラック住宅世帯主の七一人中三八人が朝鮮人となっている。ほかは被差別部落民か、よそから流れてきた失業者である(前掲「前川論文」参照)。
彼らはまず、鴨川べりの堤防の高いところに住んだ。その住居というのは、堤防の斜面に庇を掛けただけの野宿同然のありさまで、ある者はどこからか見つけてきた筵を壁がわりに垂らし、廃材を集めてきてはこつこつと小屋の骨組みをこしらえていった。そうした作業がおこなわれるのは、たいてい日雇いを終えて帰ってきた夜のことであり、一夜明けたらまたひとつ、一夜明けたらまたひとつ、というふうに新しいバラックがあらわれた。
そこへ同族がつぎつぎとやって来る。いくらかでも隙間があれば体をねじ込むようにバラックを建て、商売をたくらむ者は粗削りで粗末な長屋を建て、廃品集積所や養豚場を建て、そうして一大迷宮のような路地世界が生まれていった。高度経済成長がはじまっていた。上流の工場群からはひっきりなしに大量の廃液がたれ流され、河原も住民たちのごみ捨て場と化して、汚水にまみれた川と汚物にまみれた河原からは始終悪臭が漂っていた。
そのころ、このバラック集落に足しげく通った部落問題研究所の専任研究員・馬原鉄男(のち立命館大学教授)は、このように現地のありさまを活写している。
今にも折れそうなつっかい棒で川に体半分あずけた家が、なんと六十数戸もへし合っているのである。あり合せの板切れでこしらえられた三畳一間から、多くて二間切りのハーモニカバラックが、お互いにもたれ合いながら、どうにかこうにかふんばっている恰好だ。ここから西に向うと、家の格好も将棋スタイルから屋台スタイルに変り、一戸ずつ思い思いに全く雑然と居をかまえている。そしてこれらのバラックの間を、破れかかったクモの巣のような路地が、あるいは縦に、あるいは斜めに、自由気ままに走り抜けている。路地は、最初から路地としてあったのではなく、バラックとバラックとが争いへし合いしあった結果残された「空地」が、いつの間にか結び合わされて路地にされたまでのことである。
(「部落はかくして創られた」(『部落』一〇八号、一九五九年一月)
この踏査記録には、「京都市屋形町、高倉町、東ノ町、西ノ町の場合」という副題がついている。まさにこれまで見てきた地域のことであるが、「川に体半分あずけた家」と書かれているところから、ここが屋形町であることは間違いないだろう。
ハーモニカの吹き口のような間口の小さなバラックが、隙間もなくひしめいているようすが目に浮かぶ。このように「自由気ままに」つくられてきた「破れかかったクモの巣のような路地」は、馬原鉄男が訪れたこの時点でさえも、それ自体が制御不能の未知の生命体ででもあるかのように、日々増殖をつづける最中であった。
日中は家中出払っていてひっそりしているはずの部落の中からどこを歩いていても、調子外れの金ヅチの音が聞えて来る。にわか大工たちの荒っぽい家つくりだ。目先のきく人は、残り少なくなった空地にそうしたバラックを次々と建てて、貸したり、売り払ったりしてしこたま稼ぎつづけているという。その商魂も、さすが川原までは延びるまいと思うていたところ、筆者が一月ほどして再び訪れたときには、物の見事にしてやられ、その意欲? のほどにいたく驚かされたものである。
(同)
堤防の上はもはや、土手の斜面にさえいよいよ建てる隙間もなくなって、たったひと月で上からなだれるように河川敷にまでバラックの群れが押し出している。洪水で流されようが、火事で総ぐるみ焼け出されようが、そんなのおかまいなしの勢いでスラムが増殖するのは、新幹線や高速道路の建設工事に従事する者が増え、都市への人口集中と大量消費がとめどもなく拡大し、使い捨てにされる大小の物品が増大したのが背景にある。
ここ屋形町でも、それが公有地であるにもかかわらず、自分勝手にバラックを建て、他人に貸したり売ったりする「目先のきく人」がいて、それを馬原鉄男は増殖生命体の親玉だと見ている。この文章につづけて彼は、スラム内住居群の実態を、「自分の家屋を持つものは全体のわずか三割強」にすぎず、「残りの四割が貸家、三割弱が貸間ぐらし」であり、「しかも、貸家の三割弱、貸間の半数以上が、バタヤ業主によってその雇用者たちに無料かそれに近い家賃で提供されている」としるす。すなわち、スラムをよりスラム化させる中心に「目先のきく」胴元の存在が大きくあるのであり、そうした無軌道なカオスの拡大に歯止めがかからぬ要因を、「この部落の職業構成のトップにバタヤがあることと関連」していると述べている。
古新聞、古雑誌、古着、古鉄などを回収して売りさばく「寄せ屋」と呼ばれるのがバタ屋の親方だ。バタ屋の人びとは寄せ屋のもとで低賃金で働かされるかわりに、「にわか大工たち」が短時間でこしらえたバラックに「無料かそれに近い家賃」で住むことができるのだった。親方から借りうけたバタ車を引いて彼らは市中をまわり、集めたそれら廃品を、「仕切場」と呼ばれる集積所にもち込み、たいてい一日五〇円から一〇〇円程度にしかならなかったが、いちばん稼ぐ者でも二〇〇円から二五〇円というのがやっとという毎日。無収入の日もあれば、雨風のつよい日もある。よその仕切場にもち込むのは厳禁。さまざまな事情を抱えて失業者となった人びとにとっては、ねぐらを確保できるし、たがいの素性を穿鑿しあったりしない無言の群れのなかにいられる安心感から、寄せ屋を頼ってきては新しい住人になるのだ。
そのようにして、スラムは拡大の一途をたどっていた。全部で寄せ屋は七業者あったが、そのうち三業者が朝鮮人であった。前出の『国鉄沿線南部バラック集落の実態調査報告』には、「一人の親方のもとには、それぞれ十数人から数十人のバタ屋が常時抱えられている。その一つのO商店には、現在四〇人のバタ屋がおり、この部落でも大きい方だ。世帯持ち七人で他は独身、年令は二七才が最低、最高は八一である」と報告されている。
そこに東海道新幹線の建設計画がもちあがった。京都市はこれを利用して、屋形町スラムの一掃をたくらんだ。たびかさなる国や国鉄への陳情を経て、新幹線のルートがスラムの上にかかるよう決定し、一九六〇年九月、国鉄は京都市議会からの熱望を受け容れるにいたった。東京オリンピックが一九六四年に迫っている。開会式までになんとしても間にあわせなければならないと、市は屋形町のスラム集落を強制的に撤去し、同時にそこから南西側にある、鴨川からもいくらか離れた東九条北河原町に改良住宅を建てて移り住まわせた。一九六二年一二月に完成した同住宅は、鉄筋コンクリート五階建て四棟、一四二戸がはいる大きなもので、入居者には朝鮮人もふくまれていた(前掲「前川論文」)。
新幹線は一九六四年一〇月一日に営業がはじまり(奥平剛士の京大入学年)、東京オリンピックにどうにか間にあった。屋形町スラムはこうして地上から消えてしまったが、敷設工事に従事していた人びとは、雇用期間が終わっても京都を去らなかった。しかしすでに屋形町スラムはない。改良住宅にはいれなかった者と新しい流入者は、東九条の東岩本町、南岩本町、北河原町、南河原町の四カ町に思いおもいにバラックを建てて住み着き、東九条はますますふくらんでいった。
そこへも居住地を求められない人びとは、さらに南にくだって、高瀬川が鴨川に流れ込む先の堤防づたいにバラックを建てていった。あたかも屋形町がふたたび出現したかのような「破れかかったクモの巣のような路地」世界を、こうして彼らは新しく形成していったのだ。そこはもともとからある松ノ木町の東の端っこにあたるところで、市の許可を得ぬまま、不法占拠状態で建てていったものだから、市から正式な番地を与えられず、「〇番地」というのが市が呼びはじめた番地といえば番地であった。
これで市はひととおり住宅事業を終えて、ほっとしたかもしれない。ところが、玉突きゲームのような、モグラたたきのような、屋形町の消滅が新しい屋形町を呼び覚まし、よりによってそこが川の合流点のすぐ下であったから、水害の危険性はますます増した。東九条にも人の数がとめどもなくふくらんで、スラム化がすすんでいった。