連載第25回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第25回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『快盗ルビイ
(1988年/原作:ヘンリー・スレッサー/脚色・監督:和田誠/制作:ビクター音楽産業、サンダンス・カンパニー

「君は――なんというか、いい奴というか、バカな奴というか――」

 ヘンリー・スレッサーの書いた小説『快盗ルビイ・マーチンスン』と、それを映画化した『快盗ルビイ』は、基本設定は同じだ。犯罪を計画することを趣味とし、あたかも犯罪者のように振る舞う自称「快盗ルビイ」について、巻き込まれていく気弱で不器用な青年の視点から描いたコメディである。

 ただ、原作が第二次世界大戦前のニューヨークを舞台にしているのに対して映画は現代の東京と、舞台は大きく変わっている。そしてもう一つ大きな違いがある。それはルビイの設定だ。原作が「ルビイ」という名前の主人公の従兄であるのに対して、映画のルビイ(小泉今日子)は主人公・徹(真田広之)の住むマンションの上の階に越してきた女性に変更されている。彼女の名前が「留美」なので、それをとって「ルビイ」と呼ばれているのである。原作ではいつも決まったレストランに主人公が呼び出されて犯罪計画を練るのに対し、映画では荷解きの手伝いをしているうちに二人は近い距離になり、彼女の部屋で犯罪計画は練られる。

 ルビイの犯罪計画に主人公が巻き込まれ、そして主人公のドジやルビイの思惑違いにより失敗したり成功しても赤字だったり――というトホホな展開や、いくつかの事件の内容は原作も映画も同じだ。高級食料品店の店主が売上金を銀行に預けようとする際に主人公が自転車でぶつかり、その隙に金の入ったカバンをすり替える。安物のイヤリングを宝石商に高値で買い取らせる。高級アパートに空き巣に入る。いずれも、細かい顛末に至るまで両者はほぼ同じなのだ。

 それにもかかわらず、それぞれから受ける印象は大きく違う。それは、ルビイの性別が変更されているからに他ならない。

 原作の主人公が犯罪計画に巻き込まれるのは、ルビイの奔放な生き方を慕っているからというのもある。だがそれだけでなく、主人公はいつもトロく、そのために何度も仕事をクビになっているのだ。時は大不況。だからこそ「お金のため」犯罪に荷担するという側面もあったのだ。

 それに対し映画では、徹はルビイに一目惚れしている。そして彼女は、女性慣れしていない徹を巧みな話術で翻弄していく。そして、気づけば徹は「ルビイに惹かれているため断りきれない」という状況に陥っていた。つまり、原作はブラックコメディのニュアンスが強いのに対して、映画は純然たるロマンティックコメディなのである。

 ここで効いてくるのが「ルビイの恋人」の存在だ。原作も映画も、ルビイには恋人がいる。だが、主人公のルビイへの感情を大きく変えたことで、その恋人の意味合いも全く異なるものになっていた。

 原作には、ルビイと恋人の間に割って入る「間男」的な立場の人物が登場する。一方、映画でその「間男」の立場に置かれることになるのが、徹なのだ。ルビイと恋人はその「間男」を巡って喧嘩することになる展開は原作も映画も同じなのだが、原作ではルビイが恋人に怒る一方、映画では恋人(陣内孝則)がルビイに怒る。つまり、原作の主人公はこの痴話喧嘩に対して部外者であるのだが、映画では喧嘩の種そのものということになる。

 ただ、それでもルビイの恋人への想いは変わらない。そして、その恋を成就させるために主人公は奮闘する。この展開も原作と映画で同じだ。が、その意味合いは全く異なるものになっている。主人公が部外者である原作の場合は、その恋の成就はハッピーエンドを意味する。だが、映画ではそうはいかない。徹はルビイを想っているだけに、彼が彼女のために必死に頑張るほど、その健気さが切なくなってくるのだ。

 しかも厄介なことに、ルビイはそんな徹の想いに早くから気づいている。犯罪計画から抜けようとする徹に対し、「あの人に話そう」「帰って、彼を呼ぶわ」と巧みにその想いを利用して嫉妬心を掻き立て、自身の計画に徹が進んで加わるように仕向けているのである。実に強かだ。

 それでいて、徹のことは全く異性として意識はしていない。具合の悪いルビイに徹が「彼氏と会えば」と提案すると、ルビイは「この顔じゃ男と会えないでしょう」と返す。それに対して徹が「僕だって男だよ」と言うと、ルビイはすかさず「その男とこの男は違うでしょ」と言い放つのだ。利用され、頑張っても振り向いてもらえない。どこまでも、徹は切ない存在なのだ。

 終盤のクライマックスは原作も映画も同じ「事件」が用意されている。ただ、ここまでの積み重ねを経て、その事件の果てに待ち受ける結末は全く異なるものになった。

 痴話喧嘩の果てに、ルビイは恋人を強くなじる手紙を書く。が、投函した後でそのことを激しく後悔し、相手が読む前に回収しようとする。そこでルビイは主人公に、恋人の家の郵便受けに配達員が手紙を入れたらすぐに奪取するよう指示する。だが、それが警察に見つかってしまい、主人公は逮捕されてしまった。もしものために、ルビイは主人公に「手紙には毒が付着していたため回収しようとした」という言い訳を授けていた。主人公の主張を受け、念のため警察は鑑定医に手紙を託す。手紙を読んだ鑑定医は事情を察し、手紙を燃やした上で「本当に毒が検出された」と証言。そのために主人公は解放される。

 この展開は、原作と映画は全く同じだ。が、映画では徹が警察を出る際に鑑定医(名古屋章)との間で、もう一つのやり取りが追加されている。

 手紙の内容を知っている鑑定医は徹に尋ねる。

「(手紙の差出人は)大事な人なのかね?」

 その問いに対して、徹は戸惑いながらもこう答える。

「そう――です」

 それを受けての鑑定医のリアクションが、冒頭に挙げたセリフだ。目の前にいる若者が大事に想っている相手は、別の男を愛している。鑑定医は手紙からそのニュアンスを感じ取っていたのだろう。それでもなお、この若者は警察に捕まるリスクを犯しながら、しかも警察に捕まっても口を割らず、想う相手に尽くした。そんな愚直なまでの健気さを半ば呆れ、半ば好ましく思って鑑定医の口からしみじみと出たのが、先のセリフだった。まさに、ここまでの徹を言い当てた言葉である。

 釈放された主人公がルビイに警察署での顛末を語るところで物語が終わるのは、原作も映画も同じだ。が、この鑑定医のやり取りが加わったことで、映画にはさらなる結末が待ち受ける。

 徹はルビイに鑑定医の言葉をそのまま伝えた。それを自身も反芻したルビイは「そうか――」ふと何かに気づくと、唐突に徹に熱いキスをするのだ。ここまで健気に尽してきた徹という人間の魅力を、鑑定医の言葉を介してルビイも理解したのだ。徹の恋の努力は、こうして報われることになる。

 原作を換骨奪胎することなく、その骨格をそのまま使いながら、原作とは大きく離れたロマンティックコメディに仕立てた和田誠の手腕には、唸るしかない。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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