連載第39回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『ティファニーで朝食を』
(1961年/原作:トルーマン・カポーティ/脚色:ジョージ・アクセルロッド/監督:ブレイク・エドワーズ/配給:パラマウント映画)
「〝But I think you will find that Tiffany’s is very understanding.〟(吹き替え版訳:ティファニーは非常に融通が利きますのでね)」
ニューヨークのマンションに引っ越して来た売れない小説家が、その階下に暮らす奔放な若い女・ホリーに惹かれ、振り回されていく──。トルーマン・カポーティの書いた中編小説は後に映画化され、主演のオードリー・ヘプバーンのファッションと相まって彼女のキャリアを代表する作品となった。
基本的な展開やホリーの設定は、原作と映画は変わらない。
・男の部屋に忍び込んできたホリーは男に兄・フレッドの面影を重ね、「フレッド」と呼ぶようになる。
・不安定な生活を幼い頃から送ってきた彼女にとって、ティファニーのような空間こそが憧れで、いつも理想郷を追い求める。
・実はホリーは14歳の時に結婚しており、そこから逃げてニューヨークに来た。元夫が訪ねてきたことで、男はそうした事情を知る。
・小説が売れた男は、ホリーとともにニューヨークの街を歩いて回る。
・ホリーはホセという南米の大富豪と結婚することになり、家庭的な人間になるよう努める。
・ホリーに麻薬の運び屋としての容疑がかかる。男の奮闘により保釈。
・ホセから別れを告げられたホリーだったが、男に背を向けて南米へと旅立とうとする。
以上の重要な展開はほぼ同じだ。
ただ、大きく異なる箇所がある。それは、男の設定だ。原作は男の述懐として綴られているため、基本的に一人称で名前は明らかになっていない。一方、映画は三人称視点で進むため、ポールという名が付いている。
そして何より異なっているのは、女性に対する距離感だ。原作の主人公は奥手なところがあり、ホリーに惹かれているものの、それを言動で示すことができない。また、どれだけ親しい間柄になってもホリーからは異性として扱ってもらえず、クリスマスプレゼントの交換の際には感謝のキスすら拒まれている。つまり、モテない人物なのだ。
それに対して映画のポールは、モテる。物語が始まった段階から金持ちの女性の愛人をしており、彼の暮らす部屋はその情事の場でもあった。ホリーに対しても、自身の想いを情熱的に伝えているし、ホリー自体も早い段階でまんざらでもない感を出している。
こうした違いが生じている理由は、原作と映画で描こうとするものが全く異なっているというのが大きい。原作は、奔放と不安定さという表裏一体の危うさを抱えたホリーの力になろうとするも、どうにもならない主人公を通して、現代人の虚しさや切なさを描いた文学だ。それに対して映画は、当時のハリウッド映画らしいシンプルなロマンティックコメディ。二つの異なる男性像は、それぞれに適した設定といえる。
ロマンティックコメディにするため、展開上でもいくつか脚色が加えられている。特に際立っているのが、中盤のデートの場面だ。小説の原稿料が初めて入ったことに気を良くした男は、ホリーとともに街へ出る。この際、映画でのみ、ティファニーへ二人で入店しているのだ。原作ではクリスマスに男がホリーにティファニーのメダルを贈っているのみで、ホリーは入店していない。
映画でポールは店員に10ドルの予算で買い物ができないかと持ちかける。ただ、望むような物は予算内にない。そこでポールはお菓子のオマケでついていた玩具の指輪をポケットから取り出し、そこに名前を刻印できないかと提案する。店員もその玩具の指輪に子どもの頃の思い出があったようで、ポールの話に乗る。店の品位に関わるのでは──と心配するホリー。
そして、ここでティファニーの店員が返したのが、冒頭に挙げたセリフだ。この辺りの小粋なやり取りが、実にこの時代のハリウッド映画らしい。この一連の場面は終盤で小道具としても利いており、ロマンティックコメディとしての味付けに重要な役割を果たしている。
デートの後、口づけを熱く交わす場面も映画の脚色。そして、これで二人は結ばれた──と思わせておいて、原作と同じ展開が待ち受けている。そのため、主人公やホリーの孤独感や虚しさの象徴のように原作では描かれてきたトラブルの数々が、映画ではポールの恋愛成就を阻む障壁として映し出されることになり、エンターテインメントとして盛り上げる要素としての役割になっていた。
決定的に異なるのは、ラストの展開だ。保釈されたホリーは南米に行くため、空港に向かう。そのタクシーに同乗するポール。途中で車を停めさせたホリーは、飼っていた猫を車外へと出す。ここからの展開が、原作と映画で全く違う。
原作では、しばらくして後悔したホリーは猫を探しに車を降りる。ポールもそれに付き合うが、猫は見つからない。ポールはホリーを空港に向かわせ、自分一人で猫を探すことに。そして、月日を経てから猫は見つかるが、ホリーは戻ってくることはなかった。
一方、映画では先に車を降りるのはポールだ。車内でもホリーへの想いを訴え続けるが、ホリーは振り向かない。最終的にはホリーの生き方を批判し、猫を探しに自ら車を降りてしまう。ホリーに対してどこまでも受動的な原作の主人公と、能動的に動くポール。劇的なことが最後に起きないのが重要なテーマである原作に対し、映画は思いきり劇的でなければならない。この主人公像の違いは、双方の描く、向かうべき先の違いそのものでもある。
そして映画では、ここから「ティファニーの指輪」が意味を成してくる。車を降りる際、名前が刻印された指輪をポールはホリーに投げつける。ホリーは指輪を見つめながら、ポールの想いを受け入れる。そして自身も車を降りて共に猫を探すことに。そして猫は見つかり、二人が口づけを交わすところでエンディングとなる。
同じような展開や場面設定であっても、作品として目指すところが異なると、伝わってくるニュアンスも大きく違ってくるのである。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。





