青山真治が“血の濃い小説家“中上健次を語る

映画監督として名高く、作家としても活躍している青山真治は、中上健次が残した16ミリフィルムを手掛かりに、『路地へ 中上健次の残したフィルム』という映画作品を世に送り出しています。そんな青山真治が、中上健次の作品に抱いた、“不思議な感覚”とは、どのようなものだったのでしょうか?

青山真治が語る、映像化しづらい中上作品の“行間に吹く風”

『EUREKA(ユリイカ)』、『東京公園』等の映画監督として名高い青山真治。
自身のノベライズ『EUREKA』で第14回三島由紀夫賞を受賞するなど、作家としても活躍しています。

2000年には、中上健次が残した16ミリフィルムを手掛かりに、『路地へ 中上健次の残したフィルム』という映画作品を世に送り出しており、作家・中上健次の『岬』『枯木灘』などの代表作の風景を捉え、中上健次の魂のふるさとを目指す旅を描いた、ロードムービーとなっています。

中上健次の作品を原作とした映画は、現在7作品ありますが、
「例外なくどれも上出来とは言い難い。理由はもちろん、小説がよすぎるからと言い募るばかりだ」と、青山氏は語ります。

そんな作家兼映画監督である青山真治が、中上健次の作品に抱いた、“不思議な感覚”とは、どのようなものだったのでしょうか。

今回は第3弾。
過去には純文学作家として活躍中の佐藤友哉氏(「佐藤友哉 中上文学の神髄を語る(1)」)、「コンビニ人間で」第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香氏(「村田沙耶香、中上文学の神髄を語る(2)」)にも寄稿頂いておりますので、こちらも併せて読んでみてください。

中上文学を語る_3_差し替え写真
2016年8月6日「日輪の翼」新宮公演(やなぎみわ演出・美術)より、宵闇の中、大型トレーラーの前で歌うオバたち。

 

中上文学の神髄を語る(3)

芸能の風、中上健次の馬
青山真治

歌舞音曲はもちろん、小説であれ映画であれ、芸能に類するもので自分の起こす風と無縁でいられるものなどない。風とは比喩ではなく実際に体感される何かであり、小説や映画など決して得意とは言えないが、風と手を切ったらおしまいである。文や映像=音響から滲み出るバイブレーションとそれが起こす風に、才能ある小説家、映画作家はみな敏感であったし、中上健次もまたそのことを誰よりも大切にした現代作家だった。しばしばジャズの人と思われているが、レゲエの方がもっと中上に馴染んでいたと思う。あるいはパンソリでもいいが、剥き出しの風、理論によるオーソライズからできるだけ離れた方が風はよく感じるし、その野性の風を嗅ぎ取る嗅覚について中上は突出していた。深入りすればただではすまない芸能ほどいい風を吹かせるものであり、だからこそそこに耽溺した中上は長生きできなかったのではなかったか。
あるいは、落語は江戸の風が吹く、と家元談志が言った、その風でももちろんよい。家元はまた、落語は人間の業の肯定とも言ったが、これも中上とはすんなり相性よく感じる。あまり言葉を費やしては言わんとすることから離れそうなのが家元の弱点だが、これくらいなら許されるだろう。きっと中上は落語なんか嫌いだったに決まっている。
どこか照れくさかったのだろうか、戯曲やシナリオを書く手は聊か鈍い。骨の髄まで小説家だった中上健次にとって、戯曲もシナリオもなにか自分のものでない気がする、と言われても不思議でない。たとえば三島や安部公房の戯曲が優れているとして、それはかれらが中上ほど小説家の血が濃いわけではなかったからだ、と言えばまた嘯いていると聞えるだろうか。しかし実際、そんな理由で中上と谷崎は圧倒的に小説家だった。

例外は映画論で、数こそ少ないしどうもそれほど評価されていないようだが、音楽を語るときと同様に中上の映画論はきわめて的確である。実際に作りはしなかったけれど、中上の想像力は映画と音楽をじゅうぶんに吸ったものだったことはその点でも疑いない。
しかし断っておくが、そのことと中上の小説の映画化とは何の関係もないのだ。決して少ないとは言えない数の小説が映画化されているが、例外なくどれも上出来とは言い難い。理由はもちろん、小説がよすぎるからと言い募るばかりだ。才能のない映画作家ばかりではないし脚本家だって強者が揃ってかかっている。
あえて言えば、風だ。
あれら行間の巷に吹いた風が映画になっても再び同じように吹くなどありえない。

中上を映画化したければページを撮影すればいい、と誰かが言った。
そのとおりかもしれない。
そう、断じかけたところに、ところが思いも寄らぬ岸から風が吹いた。

ポルトガルの映画作家ペドロ・コスタの諸作にヴェントゥーラという名の老人が登場するが、かれが画面に姿を現すなり、トモノオジ、と思わず呟いた。2006年の『コロッサル・ユース』のときはまだ予感に過ぎなかったが、十年後に見た『ホース・マネー』でそれは確信に変わった。そもそもそれ以前からかれが舞台として択んできたリスボンのフォンタイーニャスはまぎれもなく「路地」だ。2000年の『ヴァンダの部屋』でその解体を克明に記録されたこの西の果ての「路地」は、きれいさっぱり再開発され、住んでいたアフリカの島カーボヴェルデからの黒人移民たちの多くはどこへともなく消え、また白人たちは死に絶え、いつかはヴェントゥーラもいなくなるだろう。何もかもが新宮のあの場所にそっくりだ。違いがあるとしたらペドロ自身がそこの出身でもカーボヴェルデの生れでもないという事実くらいか。もちろん、本人に直接確かめたが、ペドロは中上を読んだことがないし、存在すら知らなかった。
元ジャンキーであるヴェントゥーラは、現実と幻覚を往還して生きる。だから、見ればわかるとおり、これはほとんど『奇蹟』の映画化だと断じていい。フォンタイーニャスを舞台にした最初の作品『骨』が「岬」を、『ヴァンダの部屋』が『枯木灘』を、『コロッサル・ユース』が『地の果て至上の時』をそれぞれに思い出させたように、清々しいまでにそうなのだ。そして中上のどの小説の映画化よりも優れている、とも躊躇なく断じる。優れている、というのは、そこに同じ風が吹いているということだと考えてもらいたい。

それとよく似たことなのだが、ペドロの映画でも中上の小説でも、馬がいない。他の動物も実はあまり印象にないのだが、馬は特別である。すぐれた芸術の傍らには馬にいてほしいではないか。だが残念、というのではない。おそらく馬が自分の傍を駆け過ぎると物理的な風を感じるだろうと想像されるその風は、たとえば俳優が客席を駆け過ぎたとしてそのときに巻き起こる風のように感動的である気がするし、殊に中上とペドロにおいて感じられる風もそのような風だ、と唐突に思う。

ずっと以前、どこかで見た演劇上演のビデオ(たぶん熊野本宮での『かなかぬち』の記録だと思う)に、空の下を駆け抜ける役者たちが映っていた気がする。決して鮮明でなかったその画像から風が吹いた気がした。皮膚に残ったその感触だけが消えない。その映像から内容はまるで伝わらなかったが、その風だけは感じ、中上だ、と思った。

あるいはその風に駆け過ぎる馬の汗の匂いがしたのかもしれない。

青山真治

Shinji Aoyama

1964年生まれ。福岡県出身。映画監督、小説家。
立教大学卒。1996年、「Helpless」で劇場デビュー。2000年「EUREKA(ユリイカ)」がカンヌ国際映画祭に出品され、二つの賞を受賞。同年、自身によるノベライズで第14回三島由紀夫賞を受賞。その他、『月の砂漠』『エリエリレマサバクタニ』『サッドヴァケイション』『東京公園』『共喰い』など。主な著書に『ホテルクロニクルズ』(小説集)、『ストレンジ・フェイス』(長編小説)『シネマ21』(評論集)などがある。

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おわりに

青山真治が語る中上文学の世界はいかがでしたか?

彼は「路地へ 中上健次の残したフィルム」という映画作品を監督するなど中上文学が導き出す世界観に傾倒しています。
いつの日か、原作・中上健次、監督・青山真治 という映画作品が世に送り出されるかもしれません…。

中上健次 電子全集6 『戯曲・シナリオ・小説集』

今回収録している小説『火まつり』は、柳町光男監督、北大路欣也、太地喜和子出演の映画『火まつり』のノベライズ版。中上は1980年に三重県熊野市二木島町で、猟銃により一族七人を殺し自殺を図った男をモデルにして『火まつり』の主人公を造型した。作家はこの奇怪な衝動殺人の背景に、地下水族館の誘致問題で波立つ過疎の漁村という条件を設定、そこに街から帰ってきた一人の女によって一変する村の空気という要素を加えた。

また、同じく『日輪の翼』は「路地」の再開発によって、居住地を追われたオバたちが若衆らの改造した大型冷凍トレーラーの荷台に乗せられ、伊勢神宮を皮切りに北は出羽三山、恐山まで聖地巡礼を行いながら、最終目的地である皇居で清掃奉仕に従事する展開。だがどうしたことか、オバらはそこで忽然と姿を消すのだ……。さらに、『かなかぬち』は、1996年和歌山県の本宮大社旧社地など数カ所で実演された野外劇の脚本。楠木正成と噂される盗賊の首領で、全身が鉄の肌に変身する「かなかぬち」を、父の仇として追跡する姉・弟の物語。この仇に寄り添う女が、略奪された彼らの母であることが判明し、ドラマは大がかりな悲劇の様相を呈する。

戯曲、シナリオ、小説などを集めた、魅力的な巻となっています。

中上-6

初出:P+D MAGAZINE(2016/10/08)

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