芥川賞をめぐるトリビアまとめ。
個性的なタイトルに注目!
小説は書き出しが命!いやいや、読者にとって最初のタッチポイントとなる「タイトル」が与えるインパクトもまた、そうやすやすと見過ごせるものではありません。
実際に、過去の芥川賞受賞作のラインアップを振り返ってみれば、火野葦平の「糞尿譚」(第6回)など、作品タイトルを読んだだけでもその内容が気になる作品が目白押し!(ちなみに、この受賞が決まったときに火野葦平は日中戦争に従軍中、小林秀雄が戦地まで受賞を知らせにいったというエピソードでも知られる「糞尿譚」ですが、この作品の排泄物をめぐる深〜いシンボリズムについては第3回P+D文学講座でも紹介させていただきます!)
さらに、過去の候補作まで着目してみれば、「とてつもなく変なタイトルだけど、一体どんな内容なのだろう…」と好奇心をくすぐられるような作品がずらりと並んでいます。
たとえば、第110回(1993年下半期)の候補作に選ばれた石黒達昌の小説、「平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに……」。なんといっても異様な長さのタイトルが目を引きますが、その内容もまた、架空の動物「ハネネズミ」の絶滅に関する論文の体裁をとり、横書き・図面入りで展開していくという、なんともユニークな小説です。
第131回(2004年上半期)には、舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」が候補作になりました。しかし、選考委員の石原慎太郎には、この意表をつくようなタイトルが「うんざり」とされ、大不評を買います。
さらに、第138回(2007年下半期)に「乳と卵」で芥川賞を受賞した川上未映子の過去の候補作には、「わたくし率 イン 歯ー、または世界」という、なんとも個性的なタイトルの話題作がありました。 これに黙っていられないのが、またもや石原慎太郎。この回の総評として、「自分が苦労?して書いた作品を表象する題名も付けられぬ者にどんな文章が書けるものかと思わざるをえない。」というコメントを残しています。
どうやら、石原センセーは題名にツッコミを入れるのがお得意なようですね!
作家が作家を選ぶこと:芥川賞をめぐる人間模様
ここまで芥川賞にまつわるエピソードを追ってきましたが、もちろん、優れた作家ならば誰もが芥川賞を受賞している、というわけではありません。有名なところでいえば、村上春樹、島田雅彦、高橋源一郎など、現代を代表するような顔ぶれの作家たちの作品が、過去に候補に挙がったことはあるものの、軒並み受賞には至っていないという事実があります。現在、芥川賞選考委員をつとめている島田雅彦にいたっては、過去6回という「最多落選記録」の持ち主です。
こうした話を聞いていると、以下のような素朴な疑問も湧いてくるもの。 「そもそも、小説はひとりひとりがじっくり読んで楽しめばよいのであって、誰かのお墨付きなど必要ないのでは?」「五大文芸誌 (※)に掲載されたものでなければ、ほとんど候補に挙がらないというのはいかがなものなの?」「選考のプロセスで、新しい才能の芽が摘まれていないか?」
※『群像』、『文学界』、『新潮』、『すばる』、『文藝』の五雑誌のこと。
じつは、こうした疑問も芥川賞の歴史のなかで繰り返しささやかれてきたことであり、それもすべて「作家が選考委員となり、新進気鋭の作家を選ぶ」という芥川賞の選考スタイルがあるからこそ。
近年では、「バカみたいな作品ばかり」と候補作品を総評した石原慎太郎の辛らつな発言に対し、「都知事閣下と都民各位のために、もらっといてやる」と噛みつき返した田中慎弥のコメントも記憶に新しいですね。その石原慎太郎本人も、「太陽の季節」で芥川賞を受賞した際には、選考委員であった佐藤春夫に「文芸として最も低級なもの」、「嫌悪を禁じ得なかった」などと、強烈な批判を受けていたのです。
小説にかぎらず芸術表現の歴史はすべて、旧世代の感性を新世代が塗り替えていくという、世代交代の連続で織り成されているものと考えれば、「作家が作家を選ぶ」という選考スタイルの中から数かぎりない人間ドラマが生まれてくるのも必然のことといえるでしょう。
影響力のあるものには、ゴシップや批判がつきもので、芥川賞もまたその例外ではありません。「たかだか賞レースに、みんな踊らされすぎ!」と斜に構えるより前に、これもまた、この国の「文壇」における世代交代などの人間ドラマが織りなすひとつの化学反応である、と思って観察してみると、個々のエピソードがより一層おもしろくみえてくるのです。
初出:P+D MAGAZINE(2016/01/18)
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