モーリー・ロバートソンが語る、「ぼくたちは何を読んできたか」①その青春の軌跡 モーリーのBOOK JOCKEY【第2回】
大学新聞「ハーバード・クリムゾン」は毎朝、全ての学生の郵便受けに届いた。「クリムゾン」の事務所の地下室に輪転機があり、新聞を配達するアルバイトも学生ローンを返済する手段の一つであり、キャンパスの中で新聞記事の執筆から購読までが完結していた。「クリムゾン」経由でニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストに就職する者も数多くいた。その権威ある存在「クリムゾン」にひときわ輝く女子大生がいた。1年生の才女だった。その1年生が書く記事は学生生活からアメリカの政治まで幅広く網羅し、明快で鋭い筆致には上級生からも定評があった。英文科を志す1年生が学生食堂での雑談中に「あんなプロの文章を最初から書ける相手と競争できないわよね」とため息をつく完成度だった。
ぼくは「クリムゾン」をほとんど読まなかった。びっしり並ぶ英文に臆していた側面も、正直あった。その苦手意識から逃れる術も身に付けていた。それは簡単だった。駒場東大キャンパスでグレーな日々を過ごした頃に、左翼団体のマスクをした上級生、あるいは東大生になりすました部外者から手渡される「反対」「粉砕」「阻止」「自治」の手書き文字が躍るプリントを力なく受け取って、後で捨てていた、あのルーティーンだ。毎朝、郵便受けに届くフレッシュなインクの匂いがする紙面を上手にどこかに捨てるのだった。学生食堂などに積み上げられた新聞の山の上に紛れ込ませることもできた。「クリムゾン」の記事について食堂で学生の会話が盛り上がる時には黙っていた。それか、もっとおもしろそうな話題を考えて新聞を読まないことを覆い隠していた。大学新聞を読んでいないことをごまかすための作業はアイデア出しの訓練にもなった。
大学2年の後半、ぼくはハーバードの知的な体力をひたすら求められる生活に根負けし、渋谷の交差点とは異なる極彩色のアメリカに疲れ、同時に「おれの良さがここでは発揮できる場所がない」と反発するようになった。「おれの良さ」とは渋谷駅から見えたあの極彩色と空気中のぴりぴりとした躍動感だった。大きく、狭く、せわしいが、同時に共通の文化と伝統、共通の常識があり、それをいじる漫才やサブカルチャーにさえ暗黙のルールがある、そんな秩序だった世界があった。定形、様式、テンプレートがあり、基本があるからこそ崩しの美学もある。それが、ここではどうだ。何もかもふりだしに戻して議論し合ったり、女が男に口答えをしたり、すっぴんでノーブラだったり、レズビアンだったり、中東のレバノンとかいう町だか国だかにアメリカの軍が行くことがいいことなのか、悪いことなのかを真剣に討論して食堂のテーブルが盛り上がったりという繰り返しが、自分の中で噛み合わなかった。アフガニスタンというどこかにある国の話が出て、ソ連の名前が出ると、ぼくはもう眠くなるのだった。こんなの、おかしいだろ? 当時のぼくにはそうとしか思えなかった。
「ここではどうして、みんな政治にしらけていないんだ? 学生時代はだらだらと遊んで、しらけて、バンド活動とかをやって芸能界の話をするものだぞ。そんな真剣にレバノンとかアフガニスタンとかを話し合っても、学生のおれらに何か違いが生めるか? 生めないだろう? だったら、なんでいちいち真剣になるんだよ」
こう思っていた。その気持をルームメイトに打ち明けたこともあった。すると、
「それは君がまだ子供だからだよ」
とからかわれた。むきになって自分もちゃんと考えていることを伝えようと、パンクやニューウェイブがすごい音楽の形態であることや、こういう音楽が世界を変えていくということを力いっぱい主張した。その時の議論は深夜に及んだ。
「政治は世の中を変えられない。それでは音楽は世の中を変えられるのか? いい音楽が生まれれば、有権者が異なる投票行動を取るのか? 世の中を変えることを目的に音楽を作っても、感動が生まれない。だから音楽が世の中を変えられるというのは矛盾しているのではないか?」
などと相互に反論がソファの上で飛び交った。オレオ・クッキーの大型パックと1/2ガロンの牛乳をそっくり消費するディベートだった。