◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回バナー画像

幕府による蝦夷地開発は将軍家治の決裁に──。伝次郎は佐竹曙山の死を知る。

 まず苫屋が三千両の拝借金を幕府に願い出る。松本秀持は苫屋に貸し付ける形で三千両の資金を勘定所から出し、苫屋はその三千両で船の建造から船乗り、食糧にいたる一切の業務を請け負う。

 問題となる拝借金三千両の返済は、御用が済み次第、蝦夷地探索に使った船二隻を建造費の六割価格で苫屋に払い下げてもらう。八百石積み弁財船二隻の払い下げ金は、千五百七十八両ほどとなり、苫屋久兵衛に貸し出した約半分の額はその時点で幕府に戻されることになる。

 また蝦夷地交易の実態を知るという名目で試し売買を行う。苫屋が、茶・煙草(たばこ)・麴(こうじ)・木綿・古着・縫い針など蝦夷地でとりわけ求められる品々を江戸や松前で仕入れ、蝦夷地で実際に売る。空船となれば横波で転覆しやすくなるため帰路には品々を売った金銭で蝦夷地の産物を買い入れ、それを積荷として江戸まで運び売りさばく。

 蝦夷地産物による交易商売は莫大な利得があり、松前と大坂を二往復すれば船の建造費をまかなうことができるというのが通説となっていた。試し売買の利益も上納すれば、たとえ損失が出たとしても久兵衛が算出した見積もり額の千四百二十二両よりはるかに安上がりで探索調査できることとなる。

 このたび船頭として蝦夷地に向かう堺屋市左衛門は、これまでも船賃を取って交易荷の蝦夷地輸送を請け負ってきた。二文ほどの銭で仕入れた古着や縫い針が蝦夷地では塩鮭五十本と交易でき、その塩鮭を江戸に運んで売れば数百倍の儲けがあることはわかっていた。海難事故にさえ遭わなければ三千両の返済はけして難しくなかった。

 問題となるのは、松前藩と癒着し蝦夷地交易権を藩から許されている飛驒屋(ひだや)などの内地商人だった。だが、あくまでも一年限りの試し売買として幕府が実施するもので、彼らの松前藩への運上金(うんじょうきん)はもとより損失分も苫屋が幾分かは補填することで松前藩に説得させれば、彼らも飲まざるを得ない。

 松前藩は、安永八年(一七七九)八月にオロシャの赤人(あかじん)四十八名が交易を願ってアツケシ(厚岸)に渡来したのをもみ消し、幕府へ一切報告せずにいた。また内地の商人が蝦夷地で異国との抜け荷(密貿易)を頻繁に行っているのは、青玉と呼ぶビードロ(ガラス)の飾り玉や蝦夷錦(えぞにしき)などおびただしい中国大陸産の品が江戸でさえも大量に売られていることで明らかだった。幕府が祖法とする鎖国、異国交易の禁止統制を松前藩は無視しているも同然だった。松本秀持が握っているこれらの不始末を明るみに出せば、松前家の改易もあり得るのは藩の重役たちも知っている。一年限りの試し売買ならば松前藩も協力するに違いなかった。

 

 十一月四日、苫屋久兵衛からの提案を受け、松本秀持は伺(うかが)い書をしたため田沼意次へ提出した。

 意次は、松本秀持からの伺い書を読み、幕府勘定方においても、またこの件のすべてを請け負う苫屋にとっても、これ以上の策はないと受け取った。

 ここで障害となるのは、家康時代より幕府が松前家に蝦夷地交易の独占権を与えてきたことだった。たとえ一年限りの交易実態調査であっても、幕府がそこに割り込むことは、ただでさえ田沼政権を葬ろうとする譜代門閥(ふだいもんばつ)の大名衆に格好の非難材料を提供することになる。

次記事

前記事

飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

【この動機がひどい!】ミステリ小説の「ヤバい動機」4選
◎編集者コラム◎ 『旅ドロップ』江國香織