【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第17話 呪いの万年筆事件――どえむ探偵秋月涼子の屈辱

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和人くんを寝かしつけると、蘭子さんは真琴さんたちの部屋にまで、例の五本セットの万年筆を持ってやってきた。時刻は午後六時を回ったあたり。

真琴さんたちのために用意されたのは、離れの二階にある二部屋のうちの一室である。離れといってもなかなか大きく、普通の一軒家と変わらない。ただし、相当に古い建物だ。

階段を上り切ったところにはトイレと小さな踊り場があり、その踊り場を挟んで二つの部屋が向かい合っている。真琴さんたちの部屋は裏手に面していて、窓からは小高い丘――萩原家では、それを裏山と呼んでいるらしい――が見えている。竹の茂ったその裏山も、萩原家の土地なのだそうだ。

もう一方の庭に面した部屋では、和人くんが今、眠りについたところである。

「この万年筆のセット、どこかの古物商で、あのサイフォンといっしょにお求めになったみたいなの。それから、急におかしくなられて……」

蘭子さんも、和人くんに対して丁寧な敬語を使う。だから、このペアは許嫁同士とはいいながら、妙に他人行儀でもあるのだ。庶民の子である真琴さんから見ると妙な感じがするのだが、大金持ちだの旧家だのというところは、そんなものなのだろうか。

蘭子さんは、ケースを開いて見せた。中にはベルベットというのか、毛足の長い赤い布が敷いてあり、五本の万年筆が並んでいる。一本一本、少しずつ太さや長さの違う万年筆に合うように、ケースに凹みが作られていて、そこに行儀よく収まっているのだ。ボディは黒、赤、青、緑、黄色。その色に合わせて、中には五色のインクが入っているというわけ。

「その万年筆自体が、そもそも変ですよ」と、真琴さん。

「メーカーもそれぞれ違うみたいだし。なにより変なのは、このケースですね。まずバラバラに万年筆を五本買って、それに合わせて後からケースを作ったんでしょう。最初からセットで売られていたものじゃないですね」

ケースには、茶色の古い革がはってある。

「このケースは、木製みたいですね」

真琴さんは、ケースを指先でコツコツと叩き、音や感触を確かめてみた。

「おかしいな。この革はすごく古い感じがする。万年筆よりも古いんじゃないかな? とすれば、このケースの窪みに合うサイズの万年筆を五本、後から集めた? でも、そんなことありそうもないし」

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「それは簡単に解決がつきますわ、お姉さま」と、涼子。

涼子は、真琴さんのことを「お姉さま」と呼ぶ。現在のところ真琴さんの唯一の恋人であり、性愛の対象であり――そしてなによりここが大切なのだが――SM遊びの相手を務めてくれる自称M奴隷でもある。

だが、それだけではない。

「涼子、SMをすると、探偵的頭脳がフル回転し始めるんです。ですから、大学を卒業したら、探偵事務所を開くつもりなんですの。世界初のドM探偵として、この秋月涼子、きっと歴史に名を残すことになると思いますわ」

そんなことを言ったりするのだ。バカなのか? バカなのだろう。

もっとも、その頭脳が時に鋭い閃きを見せることがあるというのも、一概に否定はできない。

「新しく箱を作って、その表面に古い革をはりつければいいんですよ。これもたぶん、そうやって古く見せかけているだけですわ。この革の端っこを少しだけはいでみたら……」

涼子は、ケースの蓋の端に爪を立てようとした。

「やめなさい、涼子ちゃん」

蘭子さんの厳しい声。

「若さまが大切になさっているのよ。傷なんかつけないでちょうだい」

「でも……」

「でも、じゃありません。ケースが新しかろうが古かろうが、そんなことは問題じゃないんです。問題は、この万年筆を手にしてから若さまがおかしくなったのは、どうしてかってことじゃないの。だいたい、涼子ちゃんが悪いのよ、万年筆なんて流行らせるから」

「涼子が流行らせたわけじゃ、ありませんわ」

たしかに、ここのところミス研の中で万年筆が流行っている。そして、その発端が涼子にあるというのも、見方によっては間違いではない。

涼子は以前から、筆記具として万年筆をよく使っていた。以前、奴隷契約書とやらを作り、真琴さんにサインを迫ったときも――そのとき真琴さんはサインをせず、その奴隷契約書は涼子のサインだけが入ったまま保留ということになっているのだが――取り出したのは万年筆だった。

濃紺のしゃれたデザインの、なかなかいい万年筆である。それを後輩たちが半ばお世辞交じりに――涼子の秋月家が蘭子さんの加賀美家にも劣らない大金持ちであるせいか、それとも涼子自身が愛嬌たっぷりの性格、しかもお人形のような美少女であるせいか、後輩たちからはたいへんな人気なのだ――「素敵だ」「羨ましい」などと言っているうちに、突如として部内に万年筆ブームが到来したというわけ。

ただし、涼子のご主人様である真琴さんは、そのブームには全く参加していない。というのも、学費全額免除の特待生としてこの大学に通っている真琴さんは、その免除を当てにする程度に実家が貧乏で、それゆえ筆記具に金をかけるというあまり意味のないムーブメントには、少しも心が動かなかったからである。真琴さんの愛用しているのは、一本百円程度+消費税で買えるごく一般的なボールペンなのだ。

「涼子は、ただ自分の万年筆を使っていただけです。それを見て、みんなが勝手に盛り上がったんですわ」

「まあ、それはそうかもしれないけど……とにかく、この万年筆セットを買ってきてから、若さまはおかしくなったの」

「たしかにイカれてますね」と、真琴さん。

「そんな言い方は、よしてくださらない? 若さまに失礼じゃありませんか。だいたい、イカれてるなんて、お年寄りみたいな言い方ね」

「そうですか? わたしの地元じゃ、若い子も使いますけど……まあ、なんと言ってもいいですが、あれはちょっとわざとらしいですよ?」

「どういうこと?」

「演技の可能性もあると思います。また、なにか企んでるんじゃないですかね」

普段の和人くんは、なかなかの悪戯者なのだ。だから真琴さんとしては、あのあからさまに妙な言動を見ても、すぐには本心から心配する気にはなれない。それに、そもそもあまりにも、あからさますぎるのではないか。

「企むって……あんなことをしても、意味がないでしょう」

「それはそうですけど」

7

「とにかく、もう少しその万年筆を調べてみて。なにかわからない?」

「万年筆自体は、そんなに高価なものには見えませんわ。それよりも、このケースが気にかかります」

涼子は、またケースを手に取って、しげしげと見つめている。

「万年筆は、どれも普通に売っているものだと思います。このうちの二本は……」

と、メーカー名を二つあげ、

「どちらも一万円くらいでしょう? ほかの三本も似たり寄ったりです」

涼子は、そのうちの一本を手に取って、自分の手帳にかなり乱暴な手つきで、曲線を何本か引いて見せながら

「書き味から考えても、高級品という感じはしませんわ」

そして再びケースを手に取ると、こう続けた。

「それよりもこのケース。たぶん手作りです。メーカーのちがう、特に高価でもない五本の万年筆を入れるために、誰かがわざわざこしらえたんでしょう。涼子、そこになにか異様な執念を感じますの。いったいなにが目的で、こんなものを作ったんでしょう?」

「だから、それは五本の万年筆を収めるためだろ」と、真琴さん。

「まあ、お姉さまったら。ですから、なぜわざわざそんなことをしたのか、という話ですわ。なぜ、バラバラで五本集めたのか。なぜ五色の色違いなのか。そして、なぜわざわざ一品物のケースまで作って、大して高価でもない万年筆を収めたのか」

「そして、なぜ和人くんは、『りら荘事件』を書き写して、傑作だ傑作だと、はしゃいでいるのか。なぜ五色のインクを使い分けるのか。うん。考えてみたら、不気味だな」

「笑われるかもしれないけど……」

蘭子さんが、声を落として真琴さんの言葉を引き継いだ。

「この万年筆には、なにか恐ろしい力が働いているんじゃないかって思うの。呪われているというのか……」

「呪いの万年筆ですか」

真琴さんは、急に興ざめしたような声になって言った。たった今まで一抹の薄気味悪さを感じていたのだが、「呪い」などという言葉を出されると、不意にバカバカしくなったのだ。しかし、蘭子さんはそんな真琴さんの様子に気づいた様子もない。

「それでね、あなたたち。この万年筆を一晩、預かってくださらない? とにかく今夜だけでも、若さまにこの万年筆を触らせたくないの」

「加賀美先輩が、自分で預かっておけばいいじゃないですか」

「若さまが返せっておっしゃったら、わたしは逆らえないもの。若さま、目をさましたら、きっとまたあの続きを書きに……書き写しに行くわ。そのとき、万年筆はどうしたって聞かれたら、わたしは若さまに嘘はつけないし……」

「でも、わたしたちが持っていたって、同じことじゃありませんか。加賀美先輩が嘘をつけないっていうのなら、結局、わたしたちの部屋にあるってことを教えるわけでしょう?」

「若さまは、夜中に女性二人の部屋に押し入ったりはなさらないわ。それに、万年筆を手にしないあいだは、割合に正気なの。だから、あなたと涼子ちゃんに一晩貸したって言えば、納得してくださると思うの」

「本当に、そんなにうまくいくかなあ」

「とにかく、今夜一晩、その万年筆を預かってちょうだい。できたら、寝ずの番をしていただきたいわ」

最後は命令口調だった。そして、蘭子さんがこの口調になると、かなり手強いのである。結局、真琴さんは押し切られてしまった。

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午後十時すぎ。母屋のシャワーを順番に借りると、他にすることもないので、真琴さんと涼子は早々にベッドにもぐりこんだ。

「でかいベッドだな。ダブルベッド?」

「セミダブルですわ」

「快適だ。この部屋、照明もいい感じ。間接照明ってやつだな」

ベッドの足元に、暖かな感じの黄色っぽい光を放つ照明が据えつけてある。天井の蛍光灯を消すと、その明かりがぼんやりと辺りを照らし出し、少しばかり神秘的な雰囲気が漂う。

「よそのお家で夜をすごすのって、なんだか気持ちが昂りますわ」

涼子は、ぴたりと真琴さんに身体を寄せてきて

「ね、お姉さま。少しだけSMをいたしませんこと?」

「ダメだよ。いつ隣から蘭子さんが入ってくるか、わからないのに。それどころか和人くんが乱入してくる可能性だってあるんだぞ」

「でも、涼子、SMをしてくださらないと、頭が働きませんわ。頭が働かないと、呪いの万年筆の謎も解けそうもありませんし」

「あれはねえ」

真琴さんは、部屋の中央の小さな丸テーブルの上に置いてある万年筆のケースに、ちらりと視線を走らせて言った。

「やっぱり和人くんの演技だと思うよ。なにが目的かわからないけど……加賀美先輩をからかって、喜んでるんじゃないかな?」

「涼子は、あれが演技なんだとしたら、蘭子先輩もグルだと思いますわ」

「その可能性もある。でも、そうしたら目的はなんだろう」

「とにかく油断できませんわね」

「ということは……不本意ながら、やっぱり徹夜したほうがいいのかなあ。寝ているあいだに変なことされちゃかなわないし」

だが、そんな心配をする必要はなかったのである。事件はそれから三十分もしないうちに起きたのだった。

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