ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第七回 「越年越冬闘争」の現場からⅡ

 

飯場暮らし

 
 だからといってみんながみんな取材に難色を示すわけではない。越年越冬闘争期間中、最も話をしたのが、秋田県出身の清水三郎さん(70歳、仮名)だ。純朴な気風のおっちゃんで、取材のお願いにも「構いませんですよ」と、二つ返事で気さくに応じてくれた。
 清水さんはこれまで、関東地方を転々としながら土木作業員を続けてきた。俗に「飯場」と呼ばれる、労働者のための宿泊施設で寝泊まりし、建設現場まで通うのだ。部屋は個室で、広さは3畳から4畳。テレビやエアコンは設置されているが、風呂、トイレは共同という。山谷の簡易宿泊施設と同じような環境だ。
 清水さんが秋田から山谷に出てきたのは30代半ばの頃だった。
「上野駅に1万円を握りしめてきました。次男が口蓋裂という難病を抱えてしまい、その治療費を工面するためです。秋田よりは東京のほうが稼げるから。上野で路上生活者の方から『山谷には手配師がいて高い仕事があるよ』と教えられ、山谷まで歩いて来たのが始まりです」
 飯場は神奈川、埼玉、千葉県各地に点在し、滞在期間は契約によって1週間から1カ月が多い。契約の更新を続け、滞在期間が年単位になることもあるという。契約が終わると、清水さんは、行きつけのカプセルホテルで1杯やりながら休日を過ごす。現在は手配師が少ないため、仕事探しはスポーツ紙の求人情報が頼りだ。
「土木作業、建築作業1本でやってきました。生活保護はまだ受けたことがありません」
 秋田に残した妻とはすでに離婚し、息子2人とは長年、音信不通だという。
「この歳になって飯場回りをしている人はいませんよ。命の続く限りは働こうかと。昨年から年金をもらっていますが、月々にすると3万円程度。今後は生活保護を受ける不安はあるけど、足腰がダメになるまで、気力を忘れないで、仕事を探して頑張ってやっていかなきゃいけない。最終的には気力の問題でないかなあと」
 そう語る清水さんの額に刻まれた3本の皺が、深い年輪を感じさせていた。
 越年越冬闘争の参加者は、大半が清水さんのような高齢者たちだが、ごく一部には若者の姿も見られた。山谷にひしめく簡易宿泊所には近年、観光客としての日本の若者が散見される一方で、生活保護受給者や日雇い労働を続ける若者もまぎれている。
「四国の児童養護施設で育ったので、僕には両親がいません。だから1人で生きていかなくてはいけなくて、そのためにどうしたらいいかと考えて辿りついたのが山谷でした。こっちの世界に来れば、助けてくれる人やアドバイスをくれる人がいますから」
 そう語るのは31歳の渡辺健太(仮名)さん。児童養護施設では15歳まで過ごした。高校進学を志望していなかったため、地元の食肉加工会社に就職。5年勤めて退職し、ひょんなことから大阪にある日雇い労働者の街、あいりん地区で支援活動に携わる。20代半ばで上京し、以来、埼玉県や千葉県などの飯場を拠点に、コンクリート打ちや建物の解体など土工関係の仕事を続けてきた。
 飯場の朝は早い。起床時間は午前4時半で、1時間後に飯場を出発し、現場には午前7時ごろ到着する。
「着いたらまずたばこを吸って休憩し、朝礼とラジオ体操が始まります。働くのは午前9時から。残業はないので夕方5時で終わり。日当は額面で9千円ぐらいですが、飯場の食費や寮費を引かれると、手元に残るのは6千円。年収にして120万円前後です。国民健康保険や年金は支払っていません」 
 越年越冬闘争の直前は、埼玉県の飯場を拠点に働いた。給与8万円を手にし、池袋のネットカフェで寝泊まりした後、山谷へやって来たという。
「これまでは体が元気だったので仕事をつなげて何とかなってきましたが、最近は体に無理がきかなくなってきました。腰と膝が痛いんです。越年越冬闘争が終わったら、生活保護を申請し、ドヤ(簡易宿泊所の意)を見つけてそこで生活をしようと思います。山谷のドヤにはこれまで何度も泊まったことがありますが、若年の貧困層は多くなっているような気がします」

◎編集者コラム◎ 『ザ・プロフェッサー』著/ロバート・ベイリー 訳/吉野弘人
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