ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十五回 「あしたのジョー」で町おこし 吉原と山谷に挟まれた「いろは会商店街」の今

 

酔っ払いの労働者たちと喧嘩の日々

 平乃屋は大正7(1918)年創業である。青木さんの祖父が下駄屋として始めた店だ。「いろは会商店街ができた頃は、主に吉原から来る客に支えられていたんです。戦前は山谷がそこまで日雇い労働者で賑わっていませんでしたからね」
 台東区役所が昭和34年に発行した『台東区商店街診断の実態』によると、いろは会通りは明治時代後期、夜店が並び、吉原へ行く客らで賑わった。明治44(1911)年に起きた吉原の大火で辺り一面焼け野原と化したが、大正8年ごろには商店会ができ、売り出しをやっていた。その3年後の大正11年、通りの全店を合わせて「いろは会」と呼ばれる商店会が結成された。各店舗からの会費を、「イ」、「ロ」、「ハ」それぞれの部に分け、「イの部」は毎月1円、「ロの部」は50銭、「ハの部」は30銭と定め、街の隆盛をはかったのが始まりとされる。
 平乃屋はその当時から現在に至るまで営業を続けており、いろは会商店街の中でも数少ない存在だ。店を守り続ける青木さんが幼少期の頃は、吉原が「不夜城」のごとく映ったという。
「私が10歳ぐらいまでは吉原が赤線だったでしょ? 遊郭ですから、その時の賑やかさったら今とは桁が違います。私が夜中の1時とか2時に目が覚めて、おじいちゃんにおぶわれて連れて行ってもらうと、まだ明かりがついていたんです。朝までやってましたからね。今のソープランドは、深夜12時ごろに閉めて真っ暗でしょ?」
 吉原に遊びに来た金持ちの旦那たちは、いろは会商店街へ立ち寄り、下駄や草履をたくさん購入していった。「牛太郎」と呼ばれる、遊女屋で事務・客引きをする男子従業員にあげるためだ。昭和33年には売春防止法が施行され、赤線地帯が廃止されたため、吉原の遊郭から灯が消えた。吉原からの客は減ったが、当時は山谷に日雇い労働者が増えていた時期で、その勢いは東京オリンピックまで続いたため、商店街はまだ活況を呈していた。
 『台東区商店街診断の実態』に、昭和34年当時のいろは会商店街の配列図が掲載されている。営業していた店は117店舗。最も多い時には120店舗以上あったというから、現在の約6倍だ。中でも目立つのが、衣類を販売する洋品店だった。ピーク時には約1万5000人いたという日雇い労働者が作業着を買い求めるためだ。それ以外は、精肉店、鮮魚店、青果店、酒店など定番の店が散らばっていたが、パチンコ店も軒を連ね、通りは連日、買い物客でごった返した。「いろは会にお店を出したくても出せない通りだったんです。出店したら『やっと念願の商売ができました』と挨拶に来るぐらい」(青木さん)の、商売人にとっては倍率の高い「一等地」だったのだ。


大勢の客で賑わっていた数十年前のいろは会商店街(いろは会商店街振興組合提供)
 

 ところが吉原からの客が減ったことで下駄の売れ行きが低迷したため、青木さんはたばこ屋に商売替えをした。昭和40年代半ばのことだ。
「最初は親父から反対されました。お前は下駄屋の息子なんだから、下駄屋を一生懸命やってろって。でも1日に1足しか売れないような商売やっていたらご飯食べられないですからね」
 たばこ屋と時期を同じくして、始めたのがやきとり屋だった。
「その当時は、この通りで日雇い労働者がたむろして、酒を飲んで騒いでいました。皆、車座になってワーワーやって、手拍子叩いて歌っていた。うちの親父は毎日のように、そんな酔っ払いの労働者たちと喧嘩していました。お巡りさんも呼びましたよ。江戸っ子で気が短いから。でもここ近年は喧嘩もなくなったし、労働者たちも高齢化したので、騒いでみんなに迷惑をかけることがなくなっちゃいましたね」
 日雇い労働者の数は、昭和48年の第一次オイルショックで日本の経済が打撃を受けると、減り始めた。それでも3年後の昭和51年、商店街にアーケードが設置された。予算は1億8000万円で、1店舗につき多額の寄付を募って建設費を捻出した。青木さんがその背景を説明する。
「当時はアーケードがないような商店街はダメだと言われていました。その流れに乗ったというか。それで頑張って皆が寄付したんです。お客さんがもっと来てくれるんだろうっていう期待もありましたね」

 アーケードは維持管理に莫大な費用がかかった。たとえばペンキを塗るだけで1000万円は軽く飛び、何度も大規模修繕を繰り返した。日雇い労働者の数も下降線をたどる一方で、商店街の景気に陰りが見え始めた。店仕舞いをする商店が続出し、バブル崩壊でさらに活気は失われ、その衰退にもはや歯止めは掛からなかった。
 時代はやや飛ぶが、そんな状況下で2012年に東京スカイツリーが竣工したことが、町おこしの活動へつながっていく。

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