ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十五回 「あしたのジョー」で町おこし 吉原と山谷に挟まれた「いろは会商店街」の今

 

日本で唯一「あしたのジョー」の舞台を名乗れる街

 いろは会通り西側の端に、プラスチック素材のその像(フィギュア)は立っている。
 髪が前方につきだし、顔には絆創膏を貼り、上着を肩に掛けて振り向く懐かしいその姿は、昭和40年代半ばに爆発的人気を博した漫画『あしたのジョー』(原作高森朝雄、作画ちばてつや、講談社)の主人公、矢吹丈である。高さは約1.9メートルと、漫画の設定よりかなり高い。

 物語の舞台は山谷だ。玉姫公園に現れた矢吹丈の喧嘩に、光る才能を見出した元ボクサーの丹下段平との出会いからスタートする。やがて矢吹丈は少年院へ送られ、段平からの葉書による「通信教育」で、ボクサーへの道を歩み始める。少年院では力石徹という男に出会い、喧嘩で敵わなかったために出所後にリングで再び闘った。しかし、力石は無理な減量がたたって死亡し、矢吹丈はその死を背負いながら、世界のタイトルマッチへ挑んでいく。力石が死んだ時は、東京都文京区にある講談社で葬儀が行われ、全国各地からファンが詰め掛けて社会現象にまでなった。漫画の登場人物に対する葬儀など、常識では考えられない話だが、詩人の寺山修司らの呼びかけで実現したというのだ。
 だから今もこの像が立つ場所は、ファンの間では「聖地」とされている。
 板橋区から初めて来たという会社員の男性(48)は、小学校4年生の時にテレビの再放送で観ていたといい、台詞を覚えているほどの熱狂的なファンだ。
「力石のことが常に頭にあって、涙なくしては観られないアニメでした」
 そう語る男性の目が潤み始めた。
「場面、場面が頭にこびりついているんです。ドヤ街から世界チャンピオンに向かって挑む姿が素晴らしかった。何もないところから這い上がる、燃えるような魂や執念は、今の若い人たちにも是非、見習ってもらいたいですね。僕自身も、ほんの一瞬にせよ、燃え上がって何かを成し遂げるような生き方をしてみたいと思います」
 いろは会とあしたのジョーのつながりは、10年ほど前に溯る。俳優の山下智久が主演した2011年公開の実写版映画で、製作委員会の講談社やTBSがプロモーション先を探していたところ、いろは会が応募した。この活動の中心的な存在が、商店街でパン店「ぶれ〜て」(2017年閉店)を経営していた堀田治彦さん(58)だった。
「日本広しといえども、あしたのジョーの舞台を名乗れるのはここしかいないという思いで手を挙げたんですけど、すんなり決まらなかったんです。もっとお客さんがたくさんいる商店街をイメージしていたらしくて。でもなんとかうちに決まりました」
 プロモの話が進む中で唯一の懸念は、堀田さんの体調だった。その頃、心臓病を患い、40日間入院をしていた。ただ、こんな町おこしのチャンスはないからと、病を押してプロモに関わった。そこで考案したのは、ボクシンググローブの形をしたパンの製造だった。
「左手はジャブだからジャム入りのグローブパン、右手はアッパーだからあんこ入りにして、それを売り出しました。退院した時は、店を営業できるような体じゃなかったんですよ。でも必死になってパンを作ったら、ものすごく売れました。製造に手間がかかるので大変でしたが、プロモをやったおかげで命が伸びたと感じています」
 ジョーの像は、スカイツリーと同じ12年に完成した。台東区商店街連合会の協力を得て、東京藝大の斎藤篤助教が制作した。立てる場所は、漫画の筋書きに沿うならば、丹下ジムがあった泪橋、つまり泪橋交差点がベストだろう。だが、周辺は酔っ払いが多く、観光目的で考えた場合、吉原大門に立つ見返り柳が近い、今の場所に決まったという。堀田さんが振り返る。
「当時はゆるキャラなんかが流行っていましたが、ジョーは本物のキャラですからね。ファンにも大切にされてきたから、その分、プロモの活動には色々と気を遣いました。そのおかげでここまで足を運んでくれる人がたくさんいたんです。他のアニメのキャラを模した像は結構いたずらされたりするんですが、ジョーはリスペクトされているのか、落書きなどは一切ありませんね」
 ジョーのオリジナルTシャツやワイン、焼酎なども造って商店街で販売し、すぐに売り切れたという。

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