連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第46話 景山民夫さんの霊感
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名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第46回目です。今回は、筆者が担当した数々の作家の中でもひと際印象深いという「景山民夫」についてのエピソード。個性溢れる小説はもとより、エッセイの名手としても人気を博した作家であり、放送作家としても活躍しました。1988年には直木賞も受賞しています。エキセントリックな一面を孕んだ活動も目立ち、文壇では異色の存在でもあったと言えます。そんな氏とのやりとりを、担当編集者ならではの視点で描きます。
2026年5月23日、伝説的編集者の小黒一三さんが亡くなった。享年76。
小黒さんは、慶應義塾大学を卒業後、いまはマガジンハウスとなっている平凡出版社に入社して、「クロワッサン」や「GULLIVER」や「ブルータス」編集部などで活躍した。
「ブルータス」編集部に在籍していたとき、アフリカ特集を取材して、仮払いの取材費の精算を経理部から迫られて、「撮影のためアフリカ象を借入れた費用として、数千万円を計上した」というエピソードが広まっていて、私は面識を得る前に、小黒さんは豪快な編集者だと思っていた。
私が小黒さんに実際会うことになったのは、1986(昭和61)年、景山民夫さんのエッセイ集『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』が、第2回講談社エッセイ賞を、吉行淳之介さんの『人工水晶体』と同時受賞したお祝いの会の世話役を、小黒さんが務めたときだった。
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『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』は、景山民夫さんが「ブルータス」に連載して、1986(昭和61)年に、マガジンハウスのBRUTUS BOOKSから出版された作品だ。
私は、『ONE FINE MESS』の装丁に、著者の景山さんが、ローマ時代風の半裸の衣装を着て走っている写真を使っているのを見て、(作品の中に太宰治の『走れメロス』に触れたものがあるせいだろう)、その大胆な意匠に驚かされた。それも小黒さんの着想であろうが、お祝いの会場に、一軒家レストランで有名だった四谷の「オテル・ドゥ・ミクニ」を貸し切るという小黒さんの英断にも驚かされた。
ギョロ目で、顎が張っていて四角く見える顔の小黒さんは、少ししゃがれた声で話したが、豪傑という前評判とは違っていて、話し方は落ち着いて説得的だったし、感性は繊細で、それでいて、大胆なアイディアをいつも思いついているようだった。
その小黒さんが世話をしたお祝いの会がどうだったのかすっかり忘れている私だが、その時期は、よく景山民夫さんと会っていた。
というのも、小黒さんの勧めで、景山さんが『ブルータス』に連載したエッセイ集『普通の生活』(1984年、朝日新聞社刊)を読んで、私は景山民夫さんの該博な知識と物を書く才能に惚れて、なんとか直木賞を受賞するような作品を書いてもらおうと企んでいたからだ。
景山民夫さんは、1969(昭和44)年に、アメリカへ渡っている。まず、ヒッピームーブメントとフラワーパワーとサイケデリックミュージックの本場のサンフランシスコに着く。
しかし、サンフランシスコの公園にはヒッピーとさえ呼べそうもない浮浪者と、行き場も、する事も無い老人たちしかいなかった。景山さんは、スコット・マッケンジーが歌ったフラワーピープルはどこに行ってしまったんだと嘆く。
新聞の求人欄を頼りに、レストランやクラブを巡ってウエイターの職を探してみる。社会保険カードやグリーンカードの提出を求められるが、もちろん、そんなものを持っているはずもない。
景山さんにとってのアメリカとは、当時、日本のテレビで放映されていたアメリカ製のテレビ番組、『パパはなんでも知っている』や『うちのママは世界一』の家庭だったり、『サーフサイド6』や『サンセット77』などの若者たちだったりした。
だが、実際来てみると、テレビ番組の中のアメリカが、本当のアメリカと違うということをしたたかに知らされた。
金釘流の片仮名で、「チキテリステーキ」と書いてある屋台で、鶏肉の照り焼きを齧っていると、白髪の老婆がそばに立った。日本人とみると、原爆を落として済まなかったと詫びるようになったのは、老婆ジェニーの息子が1959年、ネバダの原爆実験の後、マッシュルーム・クラウド(キノコ雲)に突撃させられ、白血病で死んだことからだと屋台の親爺が言った。そうして、親爺は、老婆がそれ以来、こんななのだと続けた。
景山さんは、この老婆から離れられればどうでもいいという気持ちで、「日本はほかに、マツモト、アキタ、ニイガタにも落とされたんだ」と嘘を吐いてしまう。
屋台の親爺は、広島訛りの日本語で、「お金要らんけんね。帰ってください。あなたね、ジェニーにひどい事言った」と怒りを表した。
サンフランシスコを見限って、景山さんは大陸を横断するバスに乗って、ニューヨークに行く。
1960年代、70年代の若者文化のひとつの舞台だったグリニッジ・ヴィレッジに来てみた。そして、そこで、1年半くらい、フォーク歌手として働く仕事にありついた。グリニッジ・ヴィレッジの、食事も出すコーヒー・ショップ「Four Winds」である。
60年代のヴィレッジにはボブ・ディランとかジョーン・バエズとかジャニス・ジョップリンなどが歌うメッセージを聴きに若者が押し寄せたものだ。だが、70年代になると、エリック・クラプトンやジミー・ペイジといった新しいミュージシャンたちの時代になったようだ。
景山さんは、このアメリカ滞在中、いろいろな人に出会い、いろいろな経験をする。チキン・テリヤキの親爺、おかしくなった女、汗が染み込んで脇の下のあたりが黄ばんだランニングシャツ一枚のバークレイホテルのフロントのイタリア人、5日前に交通事故で母親が死んだことを知らされないまま、ベトナムから帰ってきたジム。彼とはロッキー山脈で会った。セントルイスのバーで、林檎を持ったままスツールから転げ落ちるが、それでも大事そうに床の上で林檎を持ち続けていた老人、道を訊ねたプエルトリカンの家族たち、コーヒー・ショップ「Four Winds」のギター弾きのウォーレス、シェフのフレッド、経営者のジンマーマン、ニューヨークでも接待に血道を上げる日本人商社マンとそのクラブのママのさよ子──。
私は、景山さんにそのときの人々のことを小説にしてもらえば、すごい作品になると思った。そして、1985年(昭和60)年から2年半にわたって、「小説現代」に「カットバック」という題で連載してもらった。
その作品を大幅に加筆訂正して、タイトルを「カットバック」から『転がる石のように』と改題して、1987(昭和63)年8月、講談社より刊行した。
「転がる石のように」とは、1965年、のちにノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランがリリースした「Like a Rolling Stone」から来ている。私は、これで直木賞を狙えると皮算用をした。
景山さんは、その間、1986(昭和61)年、『虎口からの脱出』(新潮社刊)で、第8回吉川英治文学新人賞を受賞して、小説家としての力を世間に知らしめる。
そうして、「野生時代」の1987年(昭和62年)6月号から63年2月号にかけて、『遠い海から来たCOO』を連載して、1988(昭和63)年3月に角川書店から出版した。
連載のときから、私は、『遠い海から来たCOO』を面白く読んではいたし、第99回直木賞の候補にもなったが、結局、あれはメルヘンだし、メルヘンは直木賞選考委員の好むところではないから、落選するだろう。次の100回には、選考委員好みの『転がる石のように』が候補になって、受賞することになる、と楽観視していた。
しかし、私の描いた絵図の通りにならなかった。
景山さんは、『遠い海から来たCOO』で、西木正明さんの『凍れる瞳』と同時受賞してしまったのだ。
選考委員の田辺聖子さんは、『遠い海から来たCOO』が文庫化されたとき、巻末の解説を書いていて、選考会でも強く推したことを告白して、最後に、
「私も『クー』に会いたいな。
『クー』は、あれからもうだいぶ、大きくなっただろうな」
と書くほど、クーに惚れ込んでいるのである。
私が獲りそこなった狸も大きくなっているはずだ。
ところで、1991年9月2日だったか、私が出社すると、何台かある文芸局のファックスから、無闇に紙が排出され、それが床にも散らばっていた。アルバイトの女性たちもどうしていいか戸惑っていた。
世に言う、「幸福の科学によるフライデー事件」で、「フライデー」誌が、新興宗教である「幸福の科学」のやり方はおかしいと記事にしたことに抗議して、「幸福の科学」の抗議行為だと分かった。
ファックスを送り続けて、編集作業を妨害するなんて、景山民夫さんのアイディアかもしれない。
実際、景山さんと歌手の小川知子さんたちが社の前にデモをかけているという報告も届いた。
私は、景山さんと連絡が取れなくなっていて、景山さんのこうした動機がよく理解できなかった。
そもそも、景山さんは、霊的なことに興味を持っていて、横浜の古いホテル「ニュー・グランド・ホテル」のマッカーサーが書斎にしていた部屋に私を連れて行って、
「ほら、この部屋、霊を感じません?」
と言ったことがある。
またあるときは、私を大阪の代々木ゼミナールに連れて行って、現代国語の教師である出口汪さんに紹介しくれた。この出口さんは、亀岡に本拠を置く教団「大本」の教祖のひとり、出口王仁三郎の曾孫であり、この人が、ここは入試に出るよと予言したのはよく当たるので、「現国の出口」と呼ばれて有名な人であるという。
景山さんは、その出口さんの部屋で、やはり、
「この部屋、霊を感じるなあ」
と言った。
あるとき、景山さんは私に、
「宗教の本を読みたいと思いません?」
と訊いてきた。
私は、宗教にはあまり興味がなかったので、
「私は宗教より、も少し背が欲しい」
と、おちゃらけた返事をした。背がスラリと高い景山さんは笑うこともなく、
「カミさんは、私を伴侶として暮らすのに不安があるらしく、宗教にすがりたいようですよ」
と私が、冗談混じりに加えたことを真面目に受け止めていた。
それから間も無くカミさん宛てに、景山さんから送られてきたのは、ダンボールいっぱいに詰められた数十冊の本だった。それはすべて、「幸福の科学」の教祖の大川隆法の著書だった。
そのとき、私は、景山さんほど文才がある人が、どうしてこのような本に興味があるんだと不思議に思った。
それから間もなく、景山さんは講談社にデモを仕掛けたり、「フライデー」や「週刊現代」 などの記事を裁判にかけるようになった。
もちろん、そのことはマスコミで、おもしろおかしく伝えられた。
「なぜ、景山さんは新興宗教に走ったんです?」
小説家の大江健三郎さんが私に訊いたことがあった。
実は私もその理由はよく分かっていなかったが、
「さあ、重度の障害を持っている長女がいて、1990年に亡くしたらしいんです」
そう答えると、
大江光さんという、障害を持つ息子さんを立派な作曲家に育て、共生している大江さんは、私の答えを聞いて、悲しそうな顔をして首を振るだけだった。
そう言えば、『普通の生活』に収録されている作品「GOOD NIGHT、SLEEP TIGHT」では、
結婚して1年目に生まれた長女が、重症の心身障害児であることを医師に告げられた時も、意識の中で、まず画面をモノクロにし、照明は、主役である自分の顔にだけ凄まじい光景がぶつけられている状態にし、医師の声が、その光の束の中から聞こえてくるものとして受けとっていた。
宣告が終わった後の沈黙と同時に光はカットアウトし、僕は真っ暗闇の中に立ちつくし、歩き去る医師の足音もドアを開く音も編集でカットし、次のシーンは、車を運転しながら、家で待つその子の母親にこの事実を、いつ、どのように告げようかと考えている自分の姿だった。
と書いてある。景山さんには重いことだったのだろう。
社内で、裁判に訴えるかどうかの会議が開かれた。
社長以下、「フライデー」や「週刊現代」の編集長、局長、役員、それに総務や広報の人間も集まったと思う。「景山」と呼び捨てにする人が大半だったが、私は「景山さん」と呼んでいた。そして、いかにこんな状態になったとは言え、出版社という組織が、個人である作家を官憲に訴えるのは、出版文化を考えても、そぐわないのではないかと主張した。
会議は、少数意見であるはずの私の意見を通してくれた。
私は、いまでも、その結論は誤っていなかったと同時に、それを通してくれた会社の決断も大したものだと思っている。
長い会議の果ての疲れ果てた、担当役員と私は、同僚たちがよく行くという池袋の和食屋へ行った。私はカウンターに腰を下ろしてすぐ、棚に大川隆法の本がびっしりと並んでいるのに気がついて、疲れがどっと倍加した。私たちはここの主人が、幸福の科学の信者だということは知らなかったのである。
早々に引き上げたのはもちろんだが、私は、しばらくして、ひとりでその店に行ってみると、それらの本は一冊残らず処分されていた。主人は、
「信仰より商売です。あれがあると、講談社の人が来てくれなくて」
と、あっけらかんとしていた。
それからどれくらい経ったのか、景山さんから、青山の日本料理屋「湖月」でお食事にお誘いしたいという連絡があった。「湖月」と言えば、座敷があって、昔、宮尾登美子さんと担当者と3人で行ったところだ。
そこに行ってみると、景山さんはパートナーと一緒に座敷に座っていた。何年振りだろう。ぎこちない挨拶を交わしたが、そのあと、景山さんが私に迷惑をかけたと謝罪した以外は、作家と編集者のごく普通の和やかな宴だった。
それから間も無く、景山さんは、1998年1月、成城の自宅で、趣味のプラモデルを製作していて、喫っていた煙草の火が、気化したシンナーに引火して、それがもとで亡くなってしまった。享年50。
景山さんの死の報を聞いたとき、唐突に私を招いてくれた「湖月」での席は、景山さんが私に別れを言うためだったのではないかと思った。そして、月日が経つにつれて、その思いはますます強くなっていく。
【著者プロフィール】
宮田 昭宏
Akihiro Miyata
国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギヤマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。
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