「生誕70年!中上健次文学その意義と軌跡」をテーマに、島田雅彦×中上紀×高澤秀次がトークセッション
2016年6月28日、MARUZENジュンク堂渋谷店にて、P+D BOOKS創刊1周年記念イベントを開催。「中上健次文学の意義と軌跡」をテーマに、島田雅彦×中上紀×高澤秀次によるトークショーを行いました。会場は大盛況。熱気の中、知られざる中上健次の素顔が次々に明らかに!
P+D BOOKS創刊1周年記念イベント・熊野大学in東京
「生誕70年!中上健次文学その意義と軌跡」島田雅彦×中上紀×高澤秀次
高澤 今年の夏はちょうど故中上健次さんの生誕70年ということで、来年は早くも没後25年を迎えます。今日は、島田雅彦さんと中上健次さんの長女、中上紀さんに参加いただき、私が進行役という形で進めさせていただきます。
まずは島田さんに伺いたいのですが、島田さんは中上健次と直接接している作家の中では一番若い世代ということになります。同世代ではあと佐伯一麦、松浦理英子、中沢けい、山田詠美さんあたりかな。島田さんが『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビューされたのは1983年でしたね。
島田 そうです。
高澤 この年、中上健次は『地の果て至上の時』を書いた年でして、いろいろな意味で、戦後の日本の文学の節目に当たる年になると思いますが、とりあえずは出会いのいきさつからお話しいただければ。
島田 そもそも中上健次の商業雑誌デビュー作に当たる作品は何なのか、まずそれを確認したいんですけれども。
中上 『一番はじめの出来事』という小説ですね。
島田 そうですか。そもそも中上さんは1970年まで続いていた「文藝首都」という同人誌で活躍されていて、その同人誌には当時としてはきら星のごとき作家陣が書いていた。先ごろお亡くなりになった津島佑子さんもその同人でした。そこから中上健次が商業誌デビューするにあたり、キーパーソンになったのが、当時河出書房新社にいて「文藝」の編集長をやっていた寺田博という人でした。実は私もこの人にデビューさせてもらっています。
中上 先ほど控室で中上と一緒、とおっしゃったのは、そのことだったんですか?
島田 そうです。手続上としては「文藝」に中上さんを紹介する人がいて、寺田さんがそれではうちの雑誌に載せようということになり、それが実質的な商業文芸誌のデビューになったらしいんです。新人賞とかに回さないで即掲載という、いわば持ち込み原稿をそのまま文芸誌に掲載するというパターンだったと思います。私も同じ経路で、当時は「海燕」という雑誌で、その編集長だった寺田さんに原稿を持ち込んで、そのまま掲載されてデビューしました。それで、中上さんから世の中への出方というか、ちょんぼの仕方が同じという話を聞いて光栄だなと(笑)。
そんな関係で寺田さんは中上健次とはその後もつき合いがあり、中上の出世作であり最高傑作と言ってもいい『枯木灘』も「文藝」に掲載されて、その掲載時の編集長でした。それで、かなり後輩に当たる私がデビューした折には、寺田さんが中上健次に、今度こういう新人が出てきたんだけどもちょっと読んでみてと中上さんに頼んだそうです。それで私の書いたものを中上さんが読んだということです。
中上 寺田さんを通じてだったんですね。
島田 そうそう。それで随分昔の話ですけれども、団塊の世代の方がまだ30代のころですので、「優しいサヨク」という片仮名表記にして私が出てきたものですから、団塊の方々から総スカンくらってボコボコにされまして、かなり厳しい状況にあったんですけれども、最初の時点で中上さんが擁護に回ってくれました。それで大分助かったというか。
中上 島田さんと中上は何歳ぐらい違うんですか。
高澤 中上健次は1946年生まれですから。
島田 15歳違う。この年齢差というのは、下で言うと、私と平野啓一郎君の年齢差と同じですね。いずれにしても、そういういきさつがあり、私も中上さんにデビュー段階でお墨つきをもらってちょっと調子に乗ったんですね。
高澤 中上健次という人は、これぞと思う新人に必ずちょっかいを出します。
島田 そう。最初は紳士的に、アウェーの逆境に置かれているから今のうちに恩を売っておけと思ったのかもしれないけれども、デビュー直後は後見みたいなことをしてくれたんですね。でも、その後、ころっと態度変わりやがって(笑)。
高澤 今度は抑圧に回る。
島田 そう。この抑圧が長く続きましたね。本当につらかったです。
高澤 島田さんが三島由紀夫賞にノミネートされたときも、選考委員が中上健次でした。
島田 そうですね。結局、ぶん殴るとか宣言されたりして。それで、その当時「ダカーポ」という雑誌がありまして、中上さんはそこで文芸批評をやられていたんですよ。
高澤 かなり晩年に近いころですね。
島田 そう、時期的にはちょっとずれているかもしれないけれども、書評等でいろいろ若手の作品評を書いていたし、一般誌にも兄貴的な感じでよく登場していました。抑圧宣言みたいなものが出された後に私が新宿の文壇バーに行き、この辺は大丈夫だなと思いながら飲んでいると、なぜか来ちゃう。期せず呼んでしまうということがあって、本当に怖かったし、つらかったですね。
高澤 怖いもの見たさもあった?
島田 多少はそういう面もあるんですけれども、割と早くに芥川賞最多落選記録を樹立してしまい、それから三島賞という、本当は私のためにつくられたと自分では思っていた賞で、私の受賞は既定路線と思っていたら2回とも落とされました(註:高橋源一郎、久間十義がそれぞれ受賞)。そのときに落とした張本人が中上さんで、この抑圧はこれからも続くんだなと思って、これじゃ日本にいてもしようがないやとニューヨークに逃げたんですね。そうしたら、今度はニューヨークまで追いかけてきた(笑)。
高澤 中上の作品では、『奇蹟』を書く直前ぐらいでしょうか。
島田 そのぐらいです。ちょうど紀さんがハワイに留学していたころ。
中上 86年ですね。おそらく、ロサンゼルスの高校に私が入るので、ハワイ経由でロサンゼルスの学校に送り届けた時だったかと思います。父はロスに数日滞在してから、ニューヨークに向かいました。
島田 そのときは、娘の学校の入学式でロスに寄ったから、ついでにニューヨークに来たと。ニューヨークとロスって、どれだけ離れているんだって(笑)。
高澤 飛行機で今だと6時間ぐらいですか。昔はもっとかかったでしょう。
島田 わざわざロスに来たついでに寄る場所じゃないだろって。
中上 そのとき、父はお金がなかったんじゃないでしょうか。私、お小遣いを取られた記憶がありますから。ちょっと貸せとか言って、なけなしの百何十ドルを。その足で島田さんのところへ行ったんですね。
島田 びっくりしましたよ。日本の文壇なんか嫌だと逃げだしたのに、ある日、自分のアパートに帰ってきたら、見間違いようのない人が……(笑)。
高澤 あの人に似ている人は余りいないから(笑)。
島田 いないね。だから、何しているんですかと聞いたら、ロスに寄ったついでに来た。ちょっと仕度しろとか言われて、そのまま飲みに連れていかれたんですけれども、そのときも私なんかずっとパシリですよ。大きな声では言えないけど、ちょっとマリファナ買ってこいとか。
中上 買ったんですか?
島田 それはまあ……。あとは飲み屋を次々はしごしていくんですね。あの人は物を食べないで、酒をがんがん飲んで、夜中の2時ぐらいになるとおなかがすいて、どか食いする。
高澤 明け方に焼き肉とかね。
島田 最悪なパターン。
中上 また、遅くまで店が開いているんですよね、アメリカって。
島田 ニューヨークは朝4時に全部の店が閉まるんですけれども、4時過ぎてからカフェに入って、もう閉店だと言われても、まあいいじゃないかと、そこで3品一気に注文するんです。そのときに注文したメニュー、いまだに覚えていますよ。フライドチキン、クラブハウスサンドイッチ、それからパスタ。それをもりもり食ってた。それで、翌日も同様で、何で俺がこんなにアテンダントしないといけないんだと……。
高澤 一方で、庇護もされた?
島田 庇護というか、こっちはいい迷惑だけれども、そういうふうに後輩として遇されたということです。