「生誕70年!中上健次文学その意義と軌跡」をテーマに、島田雅彦×中上紀×高澤秀次がトークセッション

対談中

ペシャワール「語り部ストリート」の直接性こそが文学の起点

高澤 なるほど。ここで今度は紀さんに聞きますが、紀さんの最近の作品はどんどん熊野に重心が移っていると感じますが、中上健次作品を本格的に読み始めたのは亡くなってからですか?

中上 そうですね。『一番はじめの出来事』は十代の頃から読んでいましたが、他のほとんどの作品は没後に読みはじめました。

高澤 それで、熊野に骨を埋めてもいいという覚悟ができたのはいつぐらいからですか。

中上 私、そんなこと、何も言っていないですけど。

高澤 あくまで作品的に、という意味で。

中上 明確にはわからないですけど、私にとって、切っても切れないものが熊野だと思います。熊野と中上健次の作品あるいは本人は切り離すことができないのと同じように。最初はいろいろな反発もあったんですけど、それならそれでいいじゃないか、自分に素直になろう、とある時から思うようになりました。

高澤 もう一つ、紀さんの場合は、熊野だけではなしに、中上健次が追い続けたアジアというテーマも、父親の後を追うようにではないけれども、避けられずにかぶってきてます。

中上 これも避けられないというか、私の中では自然発生的です。アジアの国で一番最初に訪れた国が、父に連れて行かれたフィリピンです。

高澤 小学校卒業記念か何か。

中上 そうです。1983年の3月、小学校卒業直後の春休みです。

高澤 2人きりで行ったんでしょう。

中上 2人きりです。実は父は、フィリピン人の作家の友達に会うためにマニラへの渡航を計画したんです。でも、当時はちょうどマルコス政権の終わりのころで、その方はアメリカ帰りだったせいか、投獄されていて、結局会えなかったんです。もっとも、彼は投獄されていたということを父はまったく知らずに、何度も電話したり、連絡を取ろうとしていました。結局最後にはあきらめて、二人でセブ島に行って遊んだんですけど、帰りの飛行機の中で新聞を見て、彼の逮捕についてはじめて知ったんです。

島田 その作家は何という人。

中上 アントニオ・マリア・ニエバ。前の年に半年ぐらい滞在していたアイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラムで、かなり意気投合した作家で、ジャーナリストでもありました。

高澤 その後だと思いますけれども、中上は河出の「文藝」で『青痣のモンゴロイドとして』というエッセイを書いて翻訳も出ましたね。

中上 そうです。いろいろな国の作家たちの短編小説などを、学生さんに下訳などを手伝ってもらいながら自ら翻訳し、「文藝」に載せています。

高澤 掲載された作家は数人いたということですか。

中上 1冊丸々分くらいいましたね。アイオワのことは、エッセイ集『アメリカ・アメリカ』で触れています。父のそういう広がりのある活動や、仕事の経緯に、ある意味振り回されながら育ったわけですから、特に父の影響でアジアが好きなんだとか、わざわざ思わなくとも、割と自然発生的に海外やアジアへ向かっていっている気がします。

高澤 しかし、これから中学生になろうとする女の子がお父さんと2人で海外旅行するかな(笑)。

中上 今だったら変?

島田 しかもマニラ(笑)。

中上 マニラに行っても客引きのお兄さんとか、普通に友達になっていましたね。そういうの、子供に見せるな! という感じですね。

島田 ニューヨークでも立ち居振る舞いはおおむねそんな感じで、80年代はまだニューヨークの治安はそんなによくないですけど、普通に麻薬の売人とかに話しかけるし、いきなり肩を組んで。

中上 怖くないんですかね。

島田 一応、体力的には自信があったでしょう。私も彼と飲んでいる限りはボディーガードと飲んでいるという気持ちはありましたけれど、本当にホームレスとか、そういうマージナルな人々には積極的に話しかけていく人でした。文学的には、もう83年の段階といったら、『地の果て至上の時』が出ていて、みずから『紀州サーガ』、最後も割と早い時期に完結させてしまって、路地の崩壊ということもやってしまった後になるので、そうすると、路地にかわり得る場所をアジアに、ニューヨークも含めて、それを探していくという、彼なりのフィールドワークを熱心にしていた時期だと思います。

中上 ニューヨークも、ブラックとホワイトだけの世界ではないですし、ある意味アジアのようにも見えますね。アメリカの中でも、もっとも多民族というか、いろいろなものがごちゃ混ぜになっている都市ですから。

島田 だから、そんな時期に、マニラもそうでしょうけど、ソウルへ行ったり、あるいはパキスタンとかへも行っていたでしょう。

中上 ペシャワール。

島田 ペシャワールに行ったときの話が私、結構好きでね。

中上 ドキュメンタリーの撮影か何か。自分で行ったわけじゃないですね。

高澤 ソ連のアフガン侵攻の直前ぐらいですか。

島田 結構早いですね、79年ですから。でも、そのときに彼が書いていた、あるいは講演で言ったのか、ペシャワール体験についてで、私が一番印象に残っているのは、「語り部ストリート」という話。

高澤 ありました。中上さんの死後刊行された、講演録『現代小説の方法』(作品社刊)で語られている道路の名前でしょう。

島田 そう。通りがあって、そこは露天商みたいな人たちも集まるような場所ですけれども、いずれにせよ、みんな情報を得るためにそこに集まってくる。場所柄、商人が遠くからやってきて、また次の町へと転々と移動しているようなところ。その人たち一人一人に、あの人と会いませんでしたか、あの人の消息知りませんかみたいなことを聞くらしい。行商の人たちはいろいろなところに行って、人のうわさ話とかも耳にしているので、もしかしたら知っている人に当たるかもしれないという情報の伝達の仕方をしている。要するに、電話で聞けばいいみたいな世界じゃなくて、実地に探る。

中上 足で歩いて。

島田 足で歩いて調べる。そうこうするうちに、ずっとそこにいる人なんかは、こういうことがあった、あるときはこういうことがあったと教えてくれる。

高澤 語り部、となるのですね。

島田 語り部ストリートを通り過ぎていった男女の物語とかを始めちゃったりするらしいんだな。

中上 今の世の中だと考えられないですね。ネットで、ささっと検索。

高澤 だから、中上さんは講演でもネットという言葉は使っていないけれども、現代的なメディアとか流通と表現している。

中上 あと、電話とか。

高澤 語り部ストリートの対極にあるものとして、その話をしている。迂遠だけれども、まずこの直接性がなければ文学は始まらないと言っています。

島田 でも、イスラム世界のほうでは、こうしたコミュニケーションの方法は今も生きていて、この間見た映画では、あるテロリスト集団に入ってしまった人物を探し出すために、あえてそういう人を探しているという噂をある町で流すようにする。そうすると、テロリスト集団のほうの人間が、こいつ、なに調べているんだということで、そいつを拉致する。それをわざと誘発させる。そうやって意図的に捕まって、こういう事情で探していると言うんだって。そうすると、そのテロリストたちのネットワークの中で、その人物がどこにいるかという情報があるので、事情に応じて、その情報を公開してやるという形が今も残っているらしい。
1回SNSとかに上げたら管理する側に筒抜けになり、情報がダダ漏れになるから、秘密を守るためにもあえて意図的に最も信頼の置ける者同士の口コミネットというものに頼るという部分があるわけです。

中上 今だったら、中上健次はどんなふうにSNSを使うのだろう。どんなふうにして、SNSがある世界に生きて、小説を書くのか……。

高澤 間違いなくイスラム的なものに興味を持ったでしょうね。

中上  私もいまお話を聞いてそう思いました。

島田 だから、晩年に『讃歌』とか『異族』とか書いたわけですが、多分当時の中上ファンからすると、とても異質な作品とも言えたわけで、多くのファンは、『紀州サーガ』的な世界にまだ引かれていたし、そんな中で突拍子もないものを書いたなという、ある戸惑いとともに受けとめられたと思います。

高澤 つまり、路地が崩壊して、路地があったときに働いていた重力が働かなくなる。登場人物たちは路地を離れて、どんどん南のほうに、全アジア規模で拡散していくわけですね。だから未完になった長篇遺作『異族』なんて収拾がつかなくなりますね。

島田 しかし、その収拾のつかなさが、イスラム国と直結させるのもよくないけれども、国家をよりどころにするのではなくて、ある種、そういう人的ネットワークで見えない国家というか、権力によって捕捉されないようなワールドワイドな人的ネットワークという形で展開しているのと近いところがあります。

中上 将来を見据えていたんですかね。

高澤 そういえば、韓国でも、フィリピンでも、日本で観光ブームになるかなり前から独特の嗅覚で注目して実際に足を運んでいますよね。

中上 イスラム世界へもそうですよね。

島田 それで、もちろんそういうネットワークというのは、必ずしも砂漠だけで広がるわけではなくて、ヨーロッパやアメリカでも広がっていまして、昨今、ロンドンとかパリはかなり移民のコミュニティを形成していますね。パリでも郊外とかには、イスラム系や北アフリカ系の移民の人たちが住まうような個別のコミュニティが多く形成されています。特に郊外あたりはロンドンでも同様で、パキスタンやインドからの移民の2世、3世たちのコミュニティが続々つくられていて、その中でも1世の世代はイギリス流の文化とかライフスタイルに順応しようとしますね。第1世代は大体どこでもそうですね。でも、第2世代になると、もともとのルーツに対する興味がわいてくる。

中上 あこがれも含めてね。

島田 故郷から離れてしまったことへの逆の反動と、プラス、親への反発がダブルで働いて、もともとの民族的ルーツとか宗教的ルーツに立ち返ろうという動きも出てくる。これが3世になるともっと複雑で、例えばアラビア語とかヒンディー語とか忘れていくんだけれども、2世は教育もあったりして独特のハイブリッドカルチャーのような文化が形成される。例えばロンドンのパンクと移民文化の融合みたいな、奇妙なハイブリッド文化をつくり出したわけです。

高澤 転倒したクレオール化みたいな事が始まる。

島田 そうです。そうやってヨーロピアンスタンダード、つまりフランス流、イギリス流の教育とかの価値観の中で育ってきたにもかかわらず、中には、ある日突然、イスラム過激派に加入してしまうとか、そういうことが現実に起きているわけですけど、中上さんが生きていたら、まさにそういう現象を見て、これこそが自分が想定していた世界の姿だと思ったのではないか。

中上 中上の後期の作品の中にはそれに近い人物設定がなされているものがありますね。例えば南米に行った「オリエントの康」の子孫が、日本に戻ってくる『熱風』とか。

高澤 そう、オリエントの康が死んだ後に子供のタケオがエメラルドを持って日本に帰って来る。それで紀州の「路地」のオリュウノオバの親類筋の男を新宿で探し出す。

中上 結局、熊野に帰還します。

島田 紀州Uターンという枠組みの中では、紀州からもそうでしょうし、あるいは沖縄からも多くの移民が1960年代ぐらいまで移民船で出ていました。日本で食いっぱぐれた人たちが熱心に移住していました。ある意味、紀州は移民を送り出す土地でもあったわけだ。そういうふうに、世界をある種植民地化しているというか、そういう人材たちをたくさん輩出してきた世界で生きてきた。結局、新宮の路地の世界観です。

中上 路地からぱあっと世界へ……。

島田 それが移民という契機を経て世界化していくことをにらんでいたとは思いますよ。

高澤 中上さんが生まれ育った新宮の路地から、ブラジルなんかへたくさん行っていますからね。

中上 サンパウロとかですね。

島田 逆に日本が高度成長完成期になると、ブラジルの日系人たちの子孫、たとえば3世とかが、今度はそういう日本のツテを頼って出稼ぎに来ますね。

中上 定住者ビザがとれる日系人が工場などで働いています。

島田 関東だと宇都宮とか高崎に組み立て工場があります。

中上 昭島とか秋川にもありますね。

島田 そういうところに労働者として入ってきて定着する。だから、今は東京郊外に日系ブラジル人コミュニティがたくさんできてます。

中上 川崎もそうでしたか?

島田 私は川崎北部の人間だから、南部のことはよく知らない。

中上 たしか横浜か川崎に、生徒の半分ぐらいが移民の子供の小学校があると聞きました。

島田 それは川崎南部の工業地帯で、鶴見寄りのほうです。あちら方面にたまに飲みに行くと、ブラジル料理屋とかコロンビア料理屋とか、いっぱいあります。

高澤 沖縄のコミュニティもあるでしょう?

島田 同じ界隈にそういう地域はあります。

中上 移民は自然と集まってくるんですかね。

高澤 端的に言うと、下層労働者として入ってくる。

島田 だから、その人たちの子供たちが地元の小学校に通うようになると、学校側の対応として、まだ日本語がろくすっぽできないような場合、教育補助のような形で、ポルトガル語をしゃべれる人が学校に常駐してという対応をやっているらしいです。この間、宇都宮でもそういう話を聞きました。

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