「鴨川食堂」第40話 ハムカツ 柏井 壽
あなたが探したい、思い出の食べものはなんですか?
第40話 ハムカツ
「そうやって捜しだすんですか。話で聞くと簡単そうだけど、実際に足を運ぶとなるとご苦労もあるんでしょうね」
清三がタブレットから目を離した。
「苦労てな、そないたいそうなことやおへん。地道に糸をたぐっていったら、かならず行き着くもんですんや」
「その『岳尾屋食堂』にもハムカツがあったんですね」
「いや、ありまへんでした。いっとき先代がメニューに載せてはったこともあったようやけど、最近はやってへんそうです」
「では、このハムカツはどうやって?」
「九十を過ぎてはるいうのに、先代のご主人はむかしのことをよう憶えてはって、『ひた食堂』のことをいろいろ教えてくれはりましたんや。『ひた食堂』のハムカツは百回ぐらい食べたて言うてはりました。お店の外観以外の写真は残してはりまへんでしたが、この銀皿を使うてたやとか、ハムはこんなんやったとか、ソースはどこのメーカーを使うてたとか、しっかり教えてくれはったんです」
「ということは、そのお店の先代のご主人がおられなかったら、このハムカツは再現できなかったということですね」
「そういうことですわ。偶然のようにも思えまっけど、必然やとも言えます。それは米山はんの思いですわ。あなたの思いが、そういう出会いに行き当たらせてくれますんや。これまでもそんなことはしょっちゅうありました。人間の思いっちゅうのは強いもんです」
「僕の思いが、ですか。なんだか面はゆい気もしますが」
「なんであなたが今になって三十年以上も前に食べたハムカツを捜そうと思わはったか。それはあなたがおっしゃってたとおりや思います。ご自分が今作ってはる料理に疑問を感じて、料理人になろうと思わはった原点に戻って、これから先、どんな料理を作っていったらええかを見極めたい。ええお話や思います。けど、あなたのなかでは、このハムカツを食べる前から既に結論が出てたん違うかなぁとも思うんですわ」
流の言葉に清三はハッとした顔をかためた。
「食通と言われてる人らの評判ばっかりを気にするのに疲れたていうか、飽き飽きしてきた。高級食材やとか特別な素材や調味料に頼らん、ふつうの料理にしようと思うてはった。このハムカツがその後押しをできたんやとしたら嬉しおす」
清三は何か言いかけようとして、まとめ切れないのか口をつぐんでしまう。それを二度三度繰り返したのを間近にして、流がふたたび口を開いた。
「言い古された言葉でっけどな、料理は形やない。心なんですわ。けど、料理屋っちゅうのは因果なもんで、儲けんならんわけですわ。評判も呼ばんとあきまへんし、そうなると星のひとつやふたつ欲しいなって当たり前ですわな。そのためには世間の評価も気に掛けんわけにはいかん。ときにはグルメ評論家やとかブロガーはんやらの好みに合わせんならんこともある。難儀なこってすなぁ」
流の言葉を聞いて、清三は握りしめていたこぶしをゆるめた。
「鴨川さんはすべてお見通しなんですね。グルメ評論家の人たちは、まさに手のひらを反(かえ)すように、高級食材の多用に疑問を投げかけているし、純粋なフレンチよりもニューウェーブの洋食屋に注目が集まっているのもその一端でしょう。情けない話ですが、僕も無意識にその流れに乗ろうと思っていたのです」
「えらそうなこと言うてかんにんしとぅくれやっしゃ。わしかて若いときはおんなじでした。そのころは口コミのグルメサイトてなもんはありまへんでしたし、例の格付け本もまだ日本版はありまへんでしたさかい、気に掛けるのはもっぱら食通の客だけでしたけどな。むかしの食通っちゅうのは、今みたいなビジネスと違うて、純粋に料理を批評したり評価したりしとったんで、聞く耳を持つ意味があったんでっけど、今は違いまっしゃろ」
「食のブームを作っておいては壊し、それを繰り返している人たちに食文化がどうだとか語ってほしくないと思うのですが、なにせ僕らは弱い立場ですし、なかなか逆らえないんですよ」
「逆らわんでもよろしい。気にせんのが一番ですわ。世間の評判やとかは気にせんと、自分がええと思うた料理を作って、喜んで食べてもらえたら、料理人冥利に尽きますがな」
「とっくに見透かされているでしょうから、正直に言いますと、この前おじゃましたときまでは、さっきから鴨川さんがおっしゃっているとおりの気持ちでした。邪心だらけだったと思います。貧しい暮らしのなかで出会ったハムカツをもう一度食べたことで、料理の方向性ががらっと変わった。そんな物語を作ることで、また新たな注目を浴びたい。さすが米山だ、そう言わせたい。そんな気持ちが心の片隅にあったことは間違いありません。でも、今日ハムカツをいただいて吹っ切れました。信じてもらえないかもしれませんが、余計な邪念みたいなものが、すーっと消えていったんです。噓じゃないんです。かっこよく言えば、心が洗われたというか。積年の恨みも晴れたような気がします」
清三がこぶしを握ったまま天井を仰いだ。
「恨み?」
こいしが訊いた。
「表向きは平気なふうを装ってきましたが、心のなかでは自分の生い立ちを恨んでましたよ。不甲斐ない両親のおかげで、ずっと貧しさを強いられてきて、あげくは子育てを放棄して、叔父に僕を押し付けてしまった。いっとき僕は本当の子どもじゃなかったのかもしれないと思いました。父を連帯保証人にして借金したのは、どんな人か教えてもらえませんでしたが、捜しだして家に火を点けてやろうかと思ったこともありました。そんな恨みをバネにしたからこそ、成りあがれたのかもしれませんが、故郷にいい思い出なんてひとつもない自分が哀れでした」
清三が目を潤ませた。
「この前お話を聞いてて、つらい境遇やったやろに、淡々と話してはって、よっぽど強い人なんやなぁと思うてましたけど」
「弱い人間ほど強がって、平気なふりをするんですよ」
「男っちゅうのは、そういうとこもあってええ思いまっせ」
流が笑顔を丸くした。
「失うことを怖れていましたが、よくよく考えれば、それを失くしたからどうだというのだ、なんですね。もともと店に星なんてなかったのですから。それより、もっともっとだいじなものを得られるかもしれない。今は心底そう思っています」
清三は晴れやかな笑顔を見せた。
「よろしおした。お役に立てたんならうれしおす。たいしたもんやおへんけど、いちおうレシピらしきもんを書いときましたんで、ご参考になさってください。ハムは俗に言う赤ハムっちゅうヤツで、厚さは二ミリです。チョップドハムていうとるとこもありますな。一枚三十円もしまへん。パン粉も生やのうて市販のもんです。揚げ油はラードを使うてますけど、コロッケやとかトンカツとかを何度か揚げて、変色しかけとるようなもんを使いました。ソースは『マルボシ酢』っちゅうお酢の会社が作ってる『さつきソース』です。一升入りで八百円ほどでっさかい特別なもんやおへんけど、『ひた食堂』ではこれを使うてたらしいです。『岳尾屋食堂』の先代さんの話を参考にさせてもろて再現したレシピです。食べはったさかい、ようお分かりや思いますけど、いたってふつうのハムカツです」
流がファイルケースを手わたした。
「ありがとうございます」
押しいただいて、清三はていねいにトートバッグに仕舞った。
「よかったですね」
こいしが急須のお茶を注いだ。
「そうそう。だいじなことを忘れるところだった。この前のお食事代と併せて、探偵料を払わせてください。いかほどになりますでしょうか。きっとカードは使えないだろうと思って、たっぷり用意してきましたので」
清三がトートバッグから分厚くふくらんだ長財布を取りだした。
「うちは金額決めてしません。お気持ちに見合うだけをこちらの口座に振り込んでください」
こいしが折りたたんだメモ用紙をわたした。
「承知しました。忘れないうちに京都駅のATMから振り込ませていただきます」
コートを腕に掛け、トートバッグを肩に引っ掛けた清三は店の引き戸を開けた。
「どうぞお気を付けて」
こいしが送りに出た。
「お世話になりました」
清三が深く一礼した。
「お荷物になりまっけど、これを持って帰ってください」
流が手提げの紙袋を差しだした。
「これは?」
受け取って清三がなかを覗きこんだ。
「さいぜんの味噌汁に入っとったタマネギとジャガイモ、付け合わせに使うたキャベツとキュウリです」
「はあ」
清三は重い荷物に顔をしかめた。
「懐かしおしたやろ。それはみなご実家の畑で穫れたもんです」
「誰があの畑を?」
清三がジャガイモを手にした。
「ご実家があった場所のすぐ横に畑はありましたわ。誰ぞが耕し続けてはるんですやろな。無人販売所があったんで買うてきました」
「そうでしたか」
清三は手のなかのジャガイモをじっと見つめている。
「思い出に、ええも悪いもありまへん。何があってもあなたの故郷は大分なんですわ。あなたを叔父さんに託さはったご両親の思いも積もってますやろ。どんなことがあっても親が自分の子どもを手放すてなことはあり得まへんのや。よっぽどのことやろ思います。ご両親もつらかったですやろな。けどその甲斐あって、あなたはこうして立派な料理人にならはった。ご両親も叔父さんもきっとあっちで喜んではることですやろ」
「故郷……」
清三がジャガイモを持つ手に力を込めると、頰をひと筋の涙が伝った。
「その野菜を使うて美味しい料理を作ってくださいね」
こいしが言葉を掛けると、清三はこっくりと首をたてに振った。
右肩にトートバッグをあずけ、左手の紙袋を持ち直して、清三が正面通を西に向かって歩きだした。
「米山はん」
流の声に清三が立ちどまって振り向いた。
「お師匠はんの思いをちゃんと胸に仕舞うときなはれや」
「はい」
大きな声を返して、清三がふたたび歩みを進めた。
清三が角を曲がるまでその背中を見送って、流とこいしは店に戻った。
「米山さんて独学やて言うてはったけど、お師匠さんてやはるんやったっけ」
片付けをしながらこいしが訊いた。
「実際には師事してはらへんかったやろけど、心の師匠としてはったフレンチのシェフがやはったはずや。米山はんのお店の屋号は『ア・ロー』。調べてみたら、水を使うっちゅう意味やそうな。そのフレンチのシェフはバターやとかクリームを極力使わんことで脚光を浴びた人なんや。いわば水の料理や。米山はんはそれを目標にして店をしてはったんやろけど」
「そのフレンチのシェフの店て今でもあるん?」
「残念ながらそのシェフが亡くなってしもうた。ほんまかどうや分からんけど、一説では格付け本で格下げされるのを苦にして自殺しはったて言われとる」
流が仏壇の前に座った。
「そうやったんか。料理の世界もいろいろあるんやなぁ」
こいしが流のうしろにまわった。
「格付けやとか星やとかは縁のない商売しとってよかったわ」
流が線香を立てた。
「よそからもらわんでも、お母ちゃんがお父ちゃんに三ツ星あげてるもんな」
目をとじて、こいしが手を合わせた。
第41話は「STORY BOX」2020年3月号でお楽しみください。