芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第18回】

 愚鈍とは実父かもしれぬ土岐頼芸(よりなり)である。握りしめた拳の中に浮かんだ汗をさらにきつく握りしめ、義龍は大きく頷く。
「朝倉、御し易し。だが織田信秀は難物だ」
「父上だからこそ撃退できましたが、じつに厄介な男です」
「世辞は、よい。織田方を木曾川に追い込んだおまえの手腕を目の当たりにして、ああ、もう俺は用済みだと悟ったのよ」
「この義龍、斯様な戯言(たわごと)、真に受けるほど初心(うぶ)ではございませぬ」
 すべては父の指図に従っただけでございます、と胸中で続ける。浅知恵を披瀝して恥をかくくらいならば、丸投げしてしまえと父に躙り寄る。
「朝倉はどうにでもなるでしょうが、織田信秀との和睦は──」
 完膚なきまで叩きのめしたからこそ信秀はおいそれと和睦には乗ってくるまい。信秀には、まだとことん意地を通すだけの財力と兵がある。再度撃退したが、再三再四攻め寄せてくる(おそ)れがある。
 父はとぼけた眼差しで、なにも言わぬ。うーむ、と腕組みした義龍である。
「物思うときは、畏まっていてはまとまるものもまとまらぬぞ。そこに転がれ。楽に息をしろ」
「父上の御前です」
「だからこそ、許されるのだ。とっとと転がれ」
 はっ、と最敬礼で転がると、傍らにくちばみが身を横たえた。
「なあ、義龍」
「はい」
「おこがましいとは思うが、おまえを助けたい」
「この義龍、家督を譲られる前は、本音では自ら打って出て、絶大なる武威を誇り、なおかつ謀略や調略と無縁に周囲を圧していきたいと思っておりました」
「ま、それがいちばん恰好がよいわな」
「はい。が、どうやら、そういった綺麗事は一直線に滅亡に向かう筋道に過ぎぬことが、さすがにこのなまくらな頭でもわかってまいりました」
「俺が見込んだだけのことはある。莫迦と悧巧の境目はどこにあるか」
「さあ──」
「莫迦は己を過信し、顧みることをしない。悧巧は己の限界を虚心坦懐に悟り、それを超える方策を練る」
「はい。義龍も父に到らぬまでも、多少なりとも悧巧でいとうございます」
「だいじょうぶだ。おまえは頼純を病死させることができる」
 静かで抑揚に充ちた冷たい声が義龍の鼓膜に刺さった。義龍は即座に答えた。
「はい。病死させてみせます」
「俺はそれをおまえに押しつけたのだから、織田信秀を(たぶら)かそう」
「父上に、それをまかせきるのは心苦しいことではありますが、この義龍、信秀をどのようにすれば手玉にとれるか、とんと見当もつきませぬ」
 道三は天井にぼんやりした視線を投げ、呟いた。
()(ちょう)をな」
「帰蝶──」
「うん。帰蝶をな、(うつ)けと評判の信秀の嫡男にくれてやろう」
「信長──」
「うん。まさに蝶よ花よと育てあげた。いま大切な大輪の駒として花ひらく。虚けにとっては過ぎたるものだが、それくらいのものをくれてやらぬと、な」
 義龍は一気に上体を起こした。半分睡っているかの父を見やる。喉仏が(ふる)え、振り絞るような声が洩れる。
「あれほど慈しんで育てた帰蝶を──」
「俺の勘だがな、虚けは、あのような(たお)やかにして隙なく整った気丈なものに弱い」
 義龍は、胸が不規則に上下するのを隠せない。けれど父はそれに一切気付かぬふうに、午睡の面持ちである。その穏やかな(かお)に視線が釘付けとなり、ますます義龍の息が乱れていく。
 ──俺は、なにか、大きな勘違いをしていたのではないか。帰蝶や弟たちは、所謂駒として用いるために、甘やかして育てられた。このようなときがくるのを見越して、父は慈愛をたっぷり注いで育てあげた。俺に冷淡だったのは、誰にも頼らずとも生きていけるように、あえて突き放してくれたのではないか。俺は父の深い真心を悟ることのできなかった大莫迦者ではないか。
 父を凝視する。
 父は義龍の視線に気付き、わずかに目をあげると、柔らかな笑みをかえした。
 義龍は感極まった。
 奥歯をきつく嚙み締める。蟀谷(こめかみ)のあたりがぐりぐり動く。
 愛憎が錯綜して、胸中の(たぎ)りは凄まじい。煮えくりかえる思いの裡に、はじめて感謝の念が義龍の全身を覆った。
 だが、釈然としない。
 幼きころの孤独が、心許なさが、ぐるぐるまわり、謝意を打ちやってしまって収まりがつかない。父が意図をもって義龍を突き放したことは充分に理解できるが、心に凍りついてしまった悲哀は、まったく溶ける気配がない。結局は、あらためてそれを悟ってしまっただけであった。
 俺だって可愛がられたかった。相撲を取ってもらいたかった。父から派手に転がされ、その衝撃からくるきな臭い匂いと青畳の香りを嗅いでみたかった。胡坐のくぼみに安置され、頭を撫でてもらいたかった。馬になった父の背にまたがって、紙の鞭を振るってその臀を叩きたかった。龍定や帰蝶がよくしていたように枕持参で父の寝床に潜りこみたかった。甘いものをたらふく食わせてもらいたかった。褒めてもらいたかった。大きく頷いてほしかった。帰蝶や龍重や龍定がされたように感極まった面持ちで、ぎゅっと抱き締めてほしかった。せめて、まともに、真っ直ぐ目を合わせてほしかった。
 己がずいぶん幼いことを、他愛ないことを思っているという自覚はある。だが、幼少のころに穿たれてしまった冷たい穴はふさがるどころか、凍えきった暗黒の大穴にまで拡がってしまっていた。
 いま情愛を注がれても、遅いのだ。俺の穴は、もはや塞ぎようがない。穴に張り詰めた氷は、もはや溶けぬところまでいってしまっているのだ。所詮はあの愚鈍、土岐頼芸の(たね)である。俺は凍てついたまま生きてゆくしかない。
 義龍は下唇を咬んだ。
 ふたたび父の脇にごろりと転がった。父と同様、天井に視線を投げ、父に呼吸を合わせた。こうしていると、実の父子のような心持ちになってくる。義龍は窃かに口の内側を咬み千切り、迫りあがる甘やかな気持ちを、にじみでる血の苦みと痛みを重ねあわせて邪険に追い払う。
 屍体のように身動きせぬ二人を小見の方はさりげなく見つめ続ける。いま、こうして溶けあおうとするならば、なぜ幼き義龍を抱きあげてやらなかったのか。ごく稀にでもよかったのだ。俺はおまえが好きだ、大好きだ、と真情をあかし、きつく頰擦りしてやればよかったのだ。
 いまさら思い煩うても詮なきこと──。
 小見の方は、哀しみに染まった溜息を吞みこんだ。

【『背高泡立草』で芥川賞受賞】小説家・古川真人のおすすめ作品
長月天音『ほどなく、お別れです それぞれの灯火』