【連載第1回】リッダ! 1972 髙山文彦
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檜森孝雄の遺灰は故郷秋田の鷹巣町の生家に兄によって連れ帰られ、四月四日に葬儀がひらかれた。仲間たちも全国から出席した。彼らは親不孝であったに違いない死者の評判を気にしていたが、親族から心温まるエピソードのいくつかを聞いて、彼が故郷を大切にしていたこと、そして母親からも親族からも深く愛されていたことを知り、打ち解けあった。兄からは、弟の思想と行動の原点には太平洋戦争末期に故郷に近い花岡鉱山で起きた中国人鉱夫たちの一斉蜂起と、それにたいする警察や憲兵隊による死の鎮圧があることを聞かされた。事件後の拷問をふくめて中国人鉱夫は一九四五年一二月までに四〇〇人以上が死亡している。
こうして檜森孝雄は故郷の土に還ったわけだが、仲間たちは遺灰を分けてもらい、学生時代ともに革命運動のアジトとしていた京都・銀閣寺近くの白川に撒いた。そして彼らはレバノンに住む足立正生の娘にも遺灰を送り、檜森が戦闘訓練をうけたバールベックとピジョンロックのそびえるベイルートの海に撒いてもらった。
それから彼らは小さな墓を建てた。その墓はパレスチナ難民キャンプと隣り合わせの墓地にある。彼の墓と並んで、ふたりの日本人の若者が埋葬されていた。
埋葬といっても、ふたりの墓には骨のかけらひとつ納められているわけではない。イスラエル南部の広大な砂漠地帯のどこかにイスラエル警察によって遺体は埋められており、とり返そうにもとり返しようのないふたりの痕跡をベイルートに残しておきたいと、彼らの顔写真をガラスにはめ込んで石に貼りつけたのだ。不本意な別れから三〇年を経て、ようやく檜森孝雄は彼らのもとへ帰ることができた。
奥平剛士、二六歳。
安田安之、二五歳。
岡本公三、二四歳。
彼らが「作戦」を決行したときの年齢だ。奥平剛士と安田安之にとってはこの世を去った年齢であり、岡本公三にとってはとても長い幽閉のはじまりの齢となった。
三人は一九七二年五月三〇日、イスラエルのテルアビブ近郊のロッド国際空港(現在はベン=グリオン空港)で、自動小銃を乱射し手榴弾を爆発させて、二四人を殺害し、七二人に重軽傷を負わせた。被害者の多くがプエルトリコからはるばるやって来た、彼らとはなんの利害関係もない巡礼団であったことから、過去に類を見ない無差別テロ事件として世界中に報道された。岡本公三は生きて逮捕されたが、奥平剛士と安田安之はその場で死んだ。
檜森孝雄はほんとうならこの襲撃作戦に加わるはずだった。すでに書いたように戦闘訓練を受けており、計画についても念入りに話し合っていた。しかし山田修の水死事故が起きて、彼の家族や友人に説明する任務を託されて、帰国せざるを得なくなったのだ。きっとまたすぐにこの地にもどり作戦に参加しようと思っていたが、帰国するや旅券法違反で逮捕されてしまい、作戦も思いがけず早々と決行されてしまったので、ふたたび海を渡る機会を逃してしまった。
なにか彼には、時を逸したまま何十年も宙吊りになっているような、やるせない感情がつきまとっているようだった。
「生まれてくるときは別々だったが、死ぬときは一緒だ」と、訓練キャンプのスモモの木の下で誓い合ったのに、自分はなにもできぬまま日本で生きている。敗残のような悲しみを胸に抱えたまま、ようやく友人たちとレバノンを訪れることができたのは、自死より二年まえの二〇〇〇年四月初めのことである。別れて二八年ぶりに奥平剛士と安田安之の墓のまえに立った彼は、手を合わせたあとしゃがみ込み、写真のはめ込まれたプレートにかかる埃を払い、それから静かに泣いて、薄い灌木の繁みのほうへ離れ、しばらく佇んでいた。
このとき岡本公三は日本への強制送還を免れ、レバノンへの政治亡命が認められたばかりだった。長かった刑務所生活を終えて、ベイルート市内にもどってきていた。拘禁症状とみられるぼんやりとして元気のない岡本を励ましてやってほしいという現地支援者からの連絡をうけて、檜森孝雄の渡航は実現したのだ。現地の新聞は連日トップでパレスチナ解放のために戦った英雄として岡本の動向を伝えるなか、檜森は厳重に警護された岡本と念願の再会をはたしたが、大声をあげて抱き合うようなドラマチックなものではなかった。岡本は檜森の待つ部屋に現地の支援者たちに守られるようにしてあらわれ、離れた席に鎮座させられた。こみあげる感情をすかされたように、しばらく檜森はぽかんとして変わりはてた岡本を見ていたが、儀礼的な挨拶を交わしたあと、ようやく近づくことを許されて、岡本の隣りに寄り添って坐った。
イスラエルの刑務所に一三年、捕虜交換による出獄後、レバノンの刑務所に三年収監された。イスラエルでは拷問をうけたとみられ、後遺症である精神疾患が認められた。発語障害のある岡本は、それでも、自分と博多で会う約束をしていたのにあなたが一日遅れて来たために会えなかった、などと話した。レバノンに岡本を送り込んだのは檜森孝雄なのである。戦場ジャーナリストが身に着けるようなポケットのたくさんついたベストを岡本が気にいったようなので、檜森は脱いでプレゼントした。以来、彼はどこにいても、ティッシュペーパーで大事に包んだ岡本の写真を持ち歩くようになった。
バールベックの訓練地には行けなかったが、途中のベカー高原までは行くことができて、かつて同じ場所でともに軍事訓練をうけた同志とも旧交を温めた。ラウシェ海岸へも行って、山田修が水死したピジョンロックを眺め、海に花を投げた。毎朝食べていたアラブパンを、いつもそうしていたように海水につけてかじり、幾片かをちぎって海に投げ弔いとした。
二〇〇一年八月には故郷の母親が死に、葬儀に帰っている。生きているあいだずっと心配をかけつづけてきた母親の死について、彼は友人のひとりに「おふくろが先に死んでくれたから、親不孝せんですんだ」(水田ふう「いぬやまでのひもりさん」『水平線の向こうに』)と語っており、このころから自死を考えていたものと思われる。
岡本と再会し、母親の死を見送った彼は、これまでだれにも語ってこなかった空港襲撃作戦の全貌について、手記を書き綴った。たとえばそれには、だれと交わしたのか明記されていないが、間違いなく奥平剛士、安田安之、もしくは山田修が相手ではないかと思われる、こんな会話をしるした文章がある。
人を殺すことについては折々に言葉を交わした。
殺したヤツの家族から見たら仇やで、おまえ、耐えられるか、目を開けてじっと見たるがな、どこ見んねん、ん~ん、水平線の向こうや、ええかっこすな、向こうしかないやろ……。
パレスチナ解放闘争に参加して多くの人々の血を流し、そして散ることに、迷いより勝っていたのは僕の場合、日本による朝鮮を始めとしたアジアへの侵略と植民地政策がもたらした現実だった。また、ゲバラの闘いだった。二六人(正確には二四人・引用者注)が死に、七二人が負傷した闘いの報に接した時、ぼくは歓喜してはいなかった。彼らは死に、僕は生きている。その瞬間が今なお続いているような気がする。
戦争――殺人行為に正義と悪を問うのは無意味である。しばらく続いた夢は、空港で死んだ人々が僕に迫るものだが、夢が醒めても僕には罪悪感と言われるものが一かけらもなかった。重い疲れが続いただけである。戦争を不可避とする侵略と抑圧をどうするか、それを問うことができるだけである。
これは二〇〇二年二月発行の『黒』というアナキスト系雑誌に掲載された「水平線の向こうに72・5・30リッダ覚え書き」と題する文章であるが、こうした手記によって、かなり明らかにされてきた襲撃作戦にいたるまでの日本人部隊の詳細は、彼らを支援してきた仲間たちに衝撃を与えはしたものの、広い意味では黙殺されたのではないかという感触を否めない。理由を推測すると、「人を殺す」とか「殺したヤツの家族から見たら仇」といった計画段階でのやりとりや、「しばらく続いた夢は、空港で死んだ人々が僕に迫るもの」といった生々しい表現などが、もしかしたら旅行者たちの命を奪ったのは日本人部隊だったのではないか、というおそれを抱かせたからではなかろうか。仲間や支援者たちが信じていたのは、奥平、安田、岡本の三人は旅行者をただのひとりも殺傷していない、それをしたのは突然銃撃をうけてパニック状態に陥ったイスラエル兵士であって、イスラエル当局はそうした事実を隠蔽している、という神話のような物語であったし、岡本公三本人も「慌てたイスラエル警備兵の出鱈目な射撃による死傷者が大半だった」(『日本赤軍20年の軌跡』話の特集)と述べていることから、この神話は、ほぼたしかなものとされていた。
それでも檜森孝雄は、さまざまな人に手紙やメールを送り、集まりがあるときにもいくらかは語って聞かせるようになった。
別れの挨拶でもするように、甥の結婚式で秋田に帰ったあと、一月一六日には宮城刑務所に行き、収監中の同志・丸岡修に宛てて現金一万円の差し入れをしている。彼は秋田へ帰るたびにこうして律儀に仙台に足を運んでいるのだが、面会も差し入れも刑務所側に拒否されてきた。
丸岡修についてはのちに詳しく書くことになるが、彼もまた檜森によってレバノンに送り込まれた戦士のひとりだ。リッダ作戦には参加しなかったけれども、奥平剛士の指令を遺言として受け、一九七三年ドバイでの日航機ハイジャック事件、つづく一九七七年ダッカでの日航機ハイジャック事件でリーダーをつとめた人物である。なけなしの一万円の差し入れは後日刑務所から返却されて、檜森は心臓病に苦しむ丸岡を思ってたいそう悔しがり嘆いた。
1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。