【連載第1回】リッダ! 1972 髙山文彦

 翌三一日の正午まえ、秋田から東京へ駆けつけた実兄によって、遺体は間違いなく檜森孝雄のものであると確認された。その後、丸の内署から慶應義塾大学病院の霊安室に遺体は移された。
 肉親以外で最初に対面したのは、映画評論家のまつまさである。松田はこの日の朝、読売新聞の記事を読み、男の住所が大和市となっていること、年齢が五四歳であること、焼身現場が日比谷公園かもめ広場となっていることなどから、檜森孝雄に間違いないと直感し、彼と親交のある渡辺亜人に電話をして警視庁詰めの共同通信記者に探りをいれてもらった。檜森孝雄と思ってほぼ間違いないとの回答と遺体の移送先を聞いて、夕刻まえに慶應病院に駆けつけたのだ。
 実兄に付き添われて運び込まれてきた檜森の遺体と対面した松田政男は、「無残であった。無念であった。僅かな水分ゆえに幾らかの赤味が残されている両の瞼を除いては、結跏趺坐の状態から起ち上がって何歩か進んだまま力尽きたと覚しく、文字通り不自然に折れ曲がった手足をも含めて、桧森孝雄の遺体は焼身自殺の痕跡をその全身に刻印しつつ黒焦げのままそこにあった」と遺体のありさまをしるし、「無人をいいことに私は泣きに泣いた」と書いている(松田政男「三月三十一日の記憶を手がかりに」『水平線の向こうに ルポルタージュ檜森孝雄』【水平線の向こうに】刊行委員会編著、風塵社)。駆けつけた年下の仲間と「手分けして電話連絡し、友人知人たちが次々と霊安室にやって来た。皆な目をそむけ、しかし目をそらさず桧森孝雄と対面した」のである。
 映画監督で日本赤軍元メンバーのだちまさも、知らせをうけて駆けつけたひとりだった。足立正生は遺体を凝視し、両方の目蓋だけが赤く残っているのは身を焼く炎を両手で避けたためだろうと思い、肩から襷掛けにされているパレスチナの旗だけがいくらか生身のまま燃え残っているのを認めた。
 松田政男はその場で文章を書き、ワープロで打ってもらい、手分けして仲間たちに急報した。

 あるいは新聞報道などでご承知かとも思いますが、残念なお知らせを緊急にお伝えしなければなりません。私たちの友人にして同志、かつ不屈の戦士にして心優しき酔っ払いでもあった桧森孝雄さんが、さる三月三〇日の夕刻近く、日比谷公園の「かもめの噴水」広場で焼身自殺をとげられました。この日がパレスチナ人民が国際的連帯の誓いを新たにする「土地の日」であること、さらにこの広場が、桧森孝雄さんを中心に昨秋、イスラエルのパレスチナ侵攻への抗議とアフガン非戦の旗印のもと、七十二時間のハンストを敢行した時の現場であることを考え合わせると、桧森さんが焼身自殺の道をあえて選び取って、自ら抗議の意思表示としたことの意味は明白であります。しかし、今ここで、その自死の意義をあげつらうことは、生者の傲慢を犯すことになりかねません。今はただ、自死の現場に残されていたと聞くメモから、「故郷(秋田・引用者注)の海をたどればシドンにいたる」という一節を取り出して、桧森さんが自らの生命存在を賭してまで、パレスチナ人民と一体化しようとした事実を、しばらく沈思黙考することにしましょう。

――同前

 メモに書かれていた地名が、ここにひとつ出てくる。シドンとはレバノン南部の地中海に面した風光明媚な港湾都市のことであり、メモにもうひとつあったハイファとは、イスラエルに占領されているパレスチナの、やはり地中海をのぞむ美しい都市のことだ。それからもうひとつ、ピジョンロックという言葉がメモにはあるが、これはレバノンの首都ベイルートのラウシェ海岸の目のまえに、海中から生え出るようにそびえ立つバームクーヘンに似たかたちと紋様とをもった奇岩のことで、檜森にとってそこは生涯忘れることのできない、いくらかのなつかしさと、それ以上のはげしい痛みや悲しみの記憶を刻印された場所であった。松田政男も足立正生も、そのほか霊安室に集まってきた人びとも、みな等しくそのことを知っていた。
 故郷の能代の海とこれらの海とはつながっている、とは、檜森孝雄がよく口にした言葉だ。二〇代前半、軍事訓練に明け暮れるなかで訪れた忘れがたい海の光景であり、ピジョンロックは、ともにイスラエルにたいする解放闘争を戦うためにレバノンに向かったやまおさむが不運な死をとげた場所であった。檜森孝雄の犠牲への意志と運命は、山田修の死によって大きく本意をねじ曲げられてしまった。このときの悔恨と、それからあまり間をおかず聞こえてきた仲間たちの壮絶な戦死の知らせ、そして自分ひとりが置いていかれたような空白感が、三〇年の時を経てもなお、かもめ広場まで寸断なくつづいていたのである。
 連絡をうけとった東京近郊の仲間たちは、午後六時の閉館まで霊安室にいて、檜森孝雄が同道するはずだった空港襲撃作戦で戦死したおくだいらつよやす安之やすゆきの遺影を枕辺に添えて、献杯の儀をとりおこなった。この奥平、安田、山田、檜森の四人こそ、決死作戦にのぞもうとした最初の日本人部隊であった。
 遺体は四月一日いっぱい冷凍室に保存され、あくる日の正午、京王線はたヶ谷がや駅近くの代々よよはた斎場で荼毘だびに付された。一〇〇名近くの仲間たちが集まり、彼らを遠巻きにするように私服の公安警察が鋭い眼光を投げていた。
 大和市のアパートの部屋からは、遺書が見つかった。そこに書かれていたのは、日本の友人や仲間たち、あるいは家族に宛てた言葉ではなかった。どこまでもパレスチナの人びとに向かって連帯を呼びかける内容で、それを読んだ仲間たちは、いかにも檜森らしいと一様に感じ入った。

 パレスティナの方々へ 侵略国家はいらない。
 シオニズム・シャロンによる侵略と虐殺、そして人種差別に対するパレスティナの人々の抵抗を無条件に支持します。平和的であれ、暴力的であれ、人間の尊厳を回復するための抵抗を無条件に支持します。
 解放に取り組むパレスティナの人々は私には近い友人のような気がします。日本は侵略戦争体制を急速に増強して非常に危険な国家になっていますが、侵略戦争の責任を問い日本解放を求める人々がアジアには少なからずいて、私も解放の一端に参加したいと希望してきました。
 侵略を既成事実としてイスラエルを認める政治がまかり通っています。特に、パレスティナの人々自身を抜きにして国家の和平が取りざたされる残酷な世界があからさまに現れ、言葉を失っています。高度に発達した科学の世界は古代よりも残酷な侵略と虐殺の時代をもたらしました。人間としてもっとも大事な、痛みを互いに思いやり、分かち合う心が無惨に踏みにじられています。
 イスラエルを後押しするアメリカ、その盟友として振る舞う日本への抗議は日本でも小さいながら続いています。シャロンを後押しする側の解体を求めて、その抗議に一人の人間として私も参加します。
 イスラエルの解体、全ての侵略国家の解体を!
 シオニズムの解体、全ての奴隷制からの解放を!
 解放の連帯!

 パレスティナに続く海辺で
 二〇〇二/三/三〇 土地の日に
 ユセフ・桧森

 檜森孝雄の自死も、あのチベットの青年同様、焼身抗議にほかならなかった。アパートの自室にいるときから彼はとっくに「パレスティナに続く海辺」に立っていたのであり、遺書の内容からしても、これはもう自決と呼ぶよりほかに言いようがない。タイトルもそうだけれども、署名には長いあいだ絶えて使われなかったアラブ名「ユセフ」をしるしている。自決を準備したときから彼の心は、どこまでもかの地の人びととともにあろうとしていたのだ。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

特別対談 田口幹人 × 白坂洋一[後編]
採れたて本!【デビュー#05】